スッタニパータ

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ブッダへの道

お釈迦さま最後のことばの意味

お釈迦さまがお亡くなりになる時に弟子のアーナンダが近くで泣いていました。

どうか、私たちを置いて行かないで下さい。

もっと指導して下さいと。

そこで、お釈迦さまは、言いました。

アーナンダよ私を拠り所にしてはならない。

法を拠り所にせよ。

と、それを見て私は、確かにお釈迦さまと言えど寿命が尽きたらお亡くなりになるので、拠り所にしてはならないと言われるのは、わかるが、法とは?

実は、法と言うのは、この世界の事だったのです。

まさに我々の目の前に繰り広げられているこの世界。

この世界に存在するひとつひとつが、法を表しています。

例えば、私たちがお風呂に入ったとします。ちょうどいい湯加減で入った時は、気持ちが良いです。しかし、時間と共に体温は、上がって行き、耐えられなくなるでしょう。

気持ちが良い状態は、どれくらいでしたでしょうか?ほんの少しです。

それから後は、苦痛ですよね?

これを見ても、このたった一つの動作がこの世を表している事がわかるでしょう?

これが法です。

つまり、この世で目の前に展開される現象は、全て法を表しているのです。

そこからの気づき、これが智慧です。

お釈迦さまは、その法、見て知ることによる気づきを拠り所とせよとおっしゃったのですね。

まさに目の当たりに展開される法を拠り所とし、それが教えである。

その法に気づくには、しっかりと、目の前に起きる事をよく観察をする。

同時に、自らの心、身体も観察をする。そこに法すなわち教えがあるのだと言う事をおっしゃったのです。

解脱への道

まず、自分の感覚的機関すなわち、目、耳、鼻、舌、蝕、意識に集中し、どのような反応の仕方をしているのか?

を観察し、人間的思考の運動(快⇄不快)を止めます。

次に、その人間的思考の運動を止めたら、目の前に現れたものに集中して、観察します。

そうすると、現れるものが変化している事に気づきます。

その常に変化する事を知って、この世が無常である事に気づきます。

この世が無常である事を知ることによって、この世は、苦であることを知ります。

そこから、更に自らの感覚機関からの反応の仕方に集中すると、反応の仕方をも変化する事を知ります。

自らの変化を自覚して、自らが無常である事を知ります。

自らが無常であることに気づき、自らと思い込んでいる存在は、無いことに気づきますそれが、無我です。

それによって、全ての執着から、離れようとする心が生じます。それが厭離です。

その状態の魂を観察すると、本来の魂は、清らかで、汚れのない玉のような光であることがわかります。

更に集中するとその輝きは、増して行きます。そして蓮華座に手が届くようになるのです。

 

私たちの心は、今まで、どうだったのでしょうか?

両極端の反応すなわち中道では、無い状態の時は、その両極端に執着をし、その執着である煩悩が魂を覆い、鉄の塊のように燃えていたのです。

それが瞋であり、瞋があるという事は、貪りがあるわけです。

無常を知らない状態で、常住を貪る事で、自分を見失うそれが痴です。

私たちは、これまで、この貪瞋痴の無限ループに落とし込まれて、この苦の世界をさまよい、死んでは、また生まれ、生まれたら必ず死ぬのですから、その苦は止みません。

 

よく、修行をぼちぼち始めますと言う言葉も耳にします。

本当にそれで良いのでしょうか?

私は、以前、自らの周りの人々が苦しんでいることが辛くて、非常に苦しみました。

何故周りの人々は、こんなにも苦しむのか?苦しむ姿は、見たくない。それが苦しい。

一見どんなに幸せそうに見える人でも、話してみると、やはり苦しんでいるではないですか?

でも、それは、当然だったのです。この世界は、苦の世界なのですから。

それに気づいて、この世界から、少しでも多くの人を助けたいと思った。

そのためには、自らが、知ってもらうしかないのです。

この縁を最後の仏縁だと思って、どうか知ってください。

この世界も残り少ないと感じて、今生で、光のように輝くのです。

理法とは?

お釈迦さまがお亡くなり(遷化)になるときにいわれました。

法を寄りどころとし、法を信じて歩め

例えば、師などを寄りどころとした場合、この世は無常ですから

いつまでもいるとは限らないわけです

では、法とは何でしょうか?

法=理法=ダンマと呼ばれるもの

それは、自らの内にあるものです

そう、私たち自らが法なのです

私たちが法を表し、自らの内に法がある

どのようにしたら法がわかるのでしょうか?

それは、自らを見ることです。

自らを観察する。

そして自らを正して法を顕現する。

そのためには、わき道にそれないようにする

そう、両極端の運動を止めることによって

しっかりと自らを見ることができるようになります。

私たちは、お風呂に入らないと、臭くなり、汚れていきます。

それと同じように、私たちの内面も磨かないと汚れていくのです。

そうして、よく気を付けて歩かないと障害物にぶつかって怪我をすることもあります。

同じように、心もよく気を付けて中道を歩ませないと怪我をするのです。

私たちもこの世の中に出て、大人になるにしたがっていろいろなことを学ぶように

よく気を付けるうちに理法によって様々なことを学ぶでしょう。

様々なことがわかることによって、道が照らされ

遂には、周りをも照らす存在となるのです。

彼の岸へと向かう修行

我々修行者は、このスッタニパータと出会って、仏縁をいただき、彼の岸を目指します。

その修行の道はもう見えているのです。

我々は、日々、戒を保って、定に入り、慧が生まれそれを積み重ねていくわけですが

戒とは何か?人間的思考の運動を止めることです

止めるにはどうすればいいのか?

自らの心をしっかり観察すること

これが戒となります。

次に定とは何か?

集中することです。

集中できなければ、自分の心を見ることはできません。

常に集中する。そうして自分の心の動き、目の前に現れた現象をよく観察する。

そうすることによって気づきが生まれそれが慧となります。

つまり、この戒、定、慧によって、彼の岸への道が照らされます。

そうして、我々修行者は、その道を歩むだけなのです。

日々の集中、戒を保って、そこから生まれるところの智慧によって遂には、彼の岸へと到達できるでしょう。

そうして自らの目で見て知る。知見が信となるのです。

スッタニパータ 現代お経から紐解くブッダへの道①

お釈迦様が説かれたスッタニパータは、苦からの脱出である。現代お経にもその一部を垣間見ることができる。寂静にして、すなわち、人間的思考の運動を止めて中道を保てば、一切の大難は来ないと説かれている。人間的思考の運動が発生し両極端の反応の仕方をすると、そこには激流が発生し、次々と同様の現象が襲いかかる。逆に自らの運動によく気をつけて、中道を保つことが出来たならば、その波は穏やかとなり、安穏は保たれるのである。そのように修行者は、自らの反応の仕方に常に注視し、その運動を止めて、日々過ごし、彼の岸へ到達せよ。