スッタニパータ

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ解説

スッタニパータ  迅速918の解説

918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と想ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか想ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想(もうそう)せずにおれ。

 

 

 

慢心によってものごとを分別し『自分は優れている』と想ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか想ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想(もうそう)分別せずにおれ。これらは全て人間的思考の運動(優⇔劣)である。等しいと思うこともまた人間的思考の運動(安心⇔不安)であり、等しいと思えば、安心し、そうでなければ不安にあるのである。これらは全て運動による荒波となってかれに襲いかかる。

スッタニパータ  迅速917の解説

917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。

 

 

内的にでも外的にでも、いかなる人間的思考の運動による反応の仕方をも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。慢心⇔消沈は、人間的思考の運動であり、それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。

 

スッタニパータ  迅速916の解説

915 〔問うていわく、ー〕「太陽の裔(すえ)である偉大な仙人(ブッダ)、あなたに、遠ざかり離れること平安の境地とをおたずねします。修行者はどのように観じて、世の中の何ものをも執することなく、安らいに入るのですか?」

 

916 師(ブッダ)は答えた、人間的思考の運動によりわれは考えて。ある⇔なし〉という運動により迷わせる不当な思惟の根本をすべて制止せよ。内に在するいかなる運動をもよく制するために、常に心して学べ。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇914の解説

914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。かれは負担をはなれて解放されている。かれははからいをなすことなく、快楽に耽(ふけ)ることなく、求めることもない。ー師はこのように言われた。

 

 

 

 

見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対(分別)することがない。かれは両極端の負担をはなれて解放されている。かれは、両極端の欲から何かを欲してはからいをなすことなく、快⇔不快の運動による快楽に耽(ふけ)ることなく、両極端を求めることもない。ー師はこのように言われた。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇913の解説

913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執着して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。

 

 

過去に人間的思考の運動により分別した「こだわり」すなわち汚れを捨てて、新しい汚れ(人間的思考の運動による分別)をつくることなく、両極端の欲におもむかず、執着して論ずることもない。賢者は諸々の偏った見方を離脱して、人間的思考の運動を制し、諸々の誘惑が存在する世の中にも汚されることなく、自分を責めることもない。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇912の解説

912 聖者はこの世で諸々の束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-

 

 

 

聖者はこの世で諸々の人間的思考の運動による束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、運動(正⇔誤)を制して党派にくみすることがない。かれは人間的思考の運動で激流にのまれた不安な人々のうちにあってもそれを制して安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々は運動により執着しているのだが。-

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇911の解説

911 バラモンは正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-

 

 

修行者は、人間的思考の運動のあり方を正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。分別による偏った見方に流されず、過去に分けた知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の分け方あるいは運動の仕方を知って、心にとどめない。ー他の人々はそれに執着しては、運動しているのだが。-

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇910の解説

910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。

 

 

 

人間的思考の運動で両極端に分け「われは知る」「われは見る」ということに執着して論ずる人は、みずから構えた両極端な偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらにのみ清浄となる道を認める論者は、そのように一方的に見たのである。この両極端の思考に陥ると全てを見ることは出来ない。聖者はこの人間的思考の運動を制してすべてを見る。すなわち大円境地の思考で観るのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇909の解説

909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。

 

 

 

 

人間的思考の運動(楽⇔苦)によって分別する人は、名称と形態とを見る。また見てはそれらを常住または安楽であると認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらをそのように見たらよいだろう。真理に達した人々は、それを分別することによって清浄になるとは説かない。その人間的思考の運動を止めたところにこそ真理への道があるのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇908の解説

908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

 

 

 

「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。清浄になる道は、自らの反応のしたかに気をつけ自らの人間的思考の運動を制する道である。他人が気をつけることが出来ようか、他人が見たところで、気をつけることができようか、かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。