スッタニパータ

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

12月

スッタニパータ 最上についての八つの詩句800の解説

800 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せずいかなる見解もをそのまま信ずることはない。

 

 

かれは、過去に分別して得た見解〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は人間的思考の運動(優⇔劣)により種々異なった見解に分かれているが、かれは実に分けないので、党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せず、いかなる見解すなわち人間的思考の運動(優⇔劣)による分け方をそのまま信ずることはない。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句799の解説

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

 

 

 

智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において人間的思考の運動(優⇔劣)による反応の仕方を制し、偏見をかまえてはならない。両極端に分ける事によって、自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。その運動を制したところに中道があるのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句798の解説

798 人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と(真理に達した人々)は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

 

 

 

人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して人間的思考の運動(優⇔劣)が立ち上がり「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実に両極端による思考の運動によるこだわりである、と真理に達した人間的思考の運動を制した人々は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわって人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げてはならない。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句797の解説

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

 

 

 

 

世間の思想家は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、人間的思考の運動(優⇔劣)の反応の仕方によって、自分の奉じていることのうちにのみすぐ(優)れた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬもの(劣)であると見なす。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句796の解説

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。  

 

 

 

 

世間では、人は人間的思考の運動(優⇔劣)によって諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と両極端に説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句795の解説

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

 

 

真の修行者は、煩悩すなわち人間的思考の運動を制し束縛された範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、分ける事なく執着することがない。かれは人間的思考の運動(欲⇔離欲)による欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは人間的思考の運動(最上⇔最低)をも制し、この世ではこれが最上のものであると固執することもない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句794の解説

794 かれらははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執着のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起こすことがない。

 

 

 

かれらは、何かを得るために、はからいをなすことなく、両極端に分ける事もないので、何物かを特に重んずることもなく、何かを得たように「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。人間的思考の運動(信⇔擬)によって結ばれた執着のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起こすことがない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句793の解説

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

 

 

かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことに対する人間的思考の運動(信⇔擬)による反応の仕方を制し、支配している。このように観じ、両極端に覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして人間的思考の運動による妄想分別させることができようか。かれは、自らの運動を制して平安に帰しているのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句792の解説

792 みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、心理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

 

 

 

みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、人間的思考の運動(正⇔誤)による想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、人間的思考の運動を止めたところから来る智慧によって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句791の解説

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

 

 

 

人間的思考の運動(信⇔擬)の反応の仕方によって、前の師などを捨てて後の師などに依存し、煩悩による両極端の動揺に従っている人々は、人間的思考の運動がもたらす執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てると言う運動を繰り返す。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。常に運動の範疇に存在し、その運動から脱することが出来ない。