スッタニパータ

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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11月

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇887の解説

887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視(べっし)し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

 

 

人間的思考の運動による偏った見方や人間的思考の運動(正⇔誤)による伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これら自らが分別したものに依存して他の説を蔑視(べっし)し、自己の学説の人間的思考の運動にもとづいた断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。これらは、全て人間的思考の運動によるものであり振り子のように運動をする。そして、あるときは喜び、またあるときは苦しむ。聖者は、人間的思考の運動を止めるものであって、人間的思考の運動にもとづいた喜びを求めるものではない。それを知って修行者は、巧みに忍び寄る人間的思考の誘惑に対して常に気をつけ、自らを律して世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇886の解説

885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?

 

 

 

886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。

 

 

 

世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の人間的思考の運動によった偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である」⇔「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。これが人間的思考の運動である。それは運動をするので、真理と思い込んでいたものが虚妄へと変化してゆく、そうして迷妄に陥っていくのである。修行者はそれを知って、この人間的思考の運動を止める事に集中をし、様々な荒波を乗り越えて彼の岸へ到達せよ。

 

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇884の解説

884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。

 

 

 

真理は一つであり人間的思考の運動を止める事であって、第二のものは存在しない。その人間的思考の運動を止める事を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった人間的思考の運動を止める方法をほめたたえている。それ故に諸々の道の人は同一の事を語らないのである。この運動の仕方は、それぞれであり、自らが気をつけることによってのみ制止できる。人間的思考の運動が完全に制止したとき真理に通じるのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇883の解説

883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の(道の人)は同一の事を語らないのであろうか?

 

 

 

或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその見解をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。人間的思考の運動をしているおおよそ半分の人々は、見方が違うのである。そのような運動をしているからである。真理⇔虚偽の運動をしてお互いにぶつかり合う。人々はこの運動をしているが故に同一のことを語ることはない。それを知って聖者は、自らの人間的思考の運動に注視し常にその運動を止めることによって論争には及ばないのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇882の解説

882 諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

 

 

 

諸々の愚者すなわち人間的思考の運動をしている諸々の愚者が、相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の人間的思考の運動による偏った見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。この偏った見方は、彼らの立場でみると真実に見えるが、他の立場で見ると愚者に見えるのである。それ故に修行者は自らの見方に固執してはならない。自らの見方すなわち人間的思考の運動を制したもの、彼こそは聖者と呼ばれる。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇881の解説

881 またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。

 

 

 

またもしも自分の人間的思考の運動による見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解はその点で等しく完全であるからである。しかしながら人間的思考の運動によった固執した清らかと思い込んだものは、この変化ある世界で、振り子のように変化して行きその想いは打ち砕かれる。それを知って修行者は、自らの想いに固執することなく、自らの人間的思考の運動(知者⇔愚者)によく気をつけ知者だとか、愚者だとか想うことなく日々精進せよ。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇880の解説

880 もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

 

 

 

もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて各自の人間的思考の運動により偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。人には、様々な見方があり、それぞれの特徴がある。知恵者は、それぞれの特徴を伸ばし合い高め合うが、人間的思考の運動により自らの考えに執着し他を受け入れない人々は、論争に及びぶつかり合うのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇879の解説

879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?

 

 

人には様々な見方がある。かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、人間的思考の運動に陥ると、ものごとを快、不快に分け、快=自らと同じ見方をするもの、不快=自らと違った見方をするものへ分別をする。そうして快を貪り求め、不快を排除しようとする。ゆえに論的を愚者と見なすのである。ゆえに真理に達した賢者は自らの人間的思考の運動を制し論争におよばないのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー小篇878の解説

878 (世の中の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。

 

 

 

世の中の修行者たちはめいめいの修行方法に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、みずから真理への熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。実に世の中には様々な見方があり、自らと同じ見方をするものを好み、違うものを嫌う、実に好き⇔嫌いの人間的思考の運動である。他の人から称賛を得たいと言う心も耳から入る称賛という快の貪りであると賢者は言う。それを知って修行者は、自らの心の内に潜む人間的思考の運動によく気をつけそれを取り除き世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ  争闘877の解説

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

 

 

 

 

かの聖者は、様々な人間的思考の運動に熟知し『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、この者は、このような人間的思考の運動によってこのような言動をし、あの者はこのような人間的思考の運動によってこのような発言をしていると知る。知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。論争したところで解脱するのではない。論争によってまた生れてくるのである。そうして論争に赴かない思慮ある賢者は、世の中の激流を渡り終わり種々なる変化的生存を受けることがない。すなわちこの世に生れる素因はつきて、遂には解脱したのである。