スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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09月

スッタニパータ  老い813の解説

813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。

 

 

 

人間的思考の運動を制して邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に分別に赴かず執着して考えることがない。かれは、人間的思考の運動を制すること以外の他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは二元に分けた運動である「快⇔不快」の運動による快を貪らず、また「好き⇔嫌い」の運動により嫌うこともない。かれは全ての人間的思考の運動を制して、遂には老いから解放され解脱へと到達したのである。すなわち、かれは、もはや、この変化ある(老いが存在する)世の中に生まれてくることはない。

スッタニパータ  老い812の解説

812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。

 

 

汚されるとは、人間的思考の運動による反応の仕方をしてしまうことである。その反応の仕方をすることによって、かれに苦しみがついてまわる。まさにそれは、汚泥の如くである。その汚泥の中に咲く蓮が如く、蓮の上の水滴、あるいは蓮の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、この汚泥にまみれた世の中にあって、見たり学んだり思索したどんなことについても、人間的思考の運動によって分ける事をせず、中道を保って汚されることがない。

 

 

スッタニパータ  老い811の解説

811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。

 

 

 

聖者はなにものにもとどこおることなく、人間的思考の運動を制し愛⇔憎の運動を制し、人間的思考の運動によって愛することもなく、憎むこともないそのような運動を制しているものだと知れ。悲⇔慳の運動をも制し、悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。すなわち人間的思考の運動を制し中道を保つもの。かれにはどのような汚れも蓮の葉の上の水がごとく汚されない。このように中道を保ち修行を進めてゆくのである。実に世の中の人間は、この人間的思考の運動により愛を叫ぶが、それは、人間的思考の運動であるので、時間と共に憎しみへと変わるのである。聖者は、この運動を完全に制して、時間も空間をも乗り越え遂には彼の岸へと到達するのである。

 

 

 

 

 

 

 

スッタニパータ  老い810の解説

810 遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

 

 

人々は、自らの周りを人間的思考の運動によって分別し、自らの好みにもとづいた執着の対象で自らを取り囲む。人間的思考の運動を制し、遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、執着の対象から独り離れた座所に親しみ近づく。執着の対象に満ちあふれている迷いの生存の領域すなわち人間的思考の運動による煩悩の激流が渦巻く領域に自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

 

スッタニパータ  老い809の解説

809 わがものとして執着したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。

 

 

 

わがものとして執着したものを貪り求める人々は、この無常の世で執着したものを失い、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。人々は、対象が変化するごとに憂い、または悲しむのであるから、諸々の聖者は、人間的思考の運動を制して求めることなく、この世を観察し、この世は無常である事を知って、空の理を知り、遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ  老い808の解説

808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

 

 

「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。この世の人々は、名称と形態とを見る。みては、人間的思考の運動によって分別するのである。その分別したものは、人間であっても、この無常の世では、常住でない。執着した対象は、全て失われていくことを知って、自らの反応の仕方に注視し、中道を保って、安穏を観るのである。

スッタニパータ  老い807の解説

807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。

 

 

夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。この世は、無常である。目の前に現れたものは、常住ではないことを知って、執着をしてはならない。必ず失われるものへの執着、それは苦である。修行者は、この無常の世に現れるものに対しての反応の仕方、すなわち人間的思考の運動による反応(快⇔不快)を制して、その中を遍歴せよ。

 

スッタニパータ  老い806の解説

806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

 

 

人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは、その人の死によって失われる。そして、またそのわがものに執着をしてまた生まれてくるのである。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。この繰り返される苦の状態を制し、中道を保って、遂には彼の岸へと到達せよ。

 

スッタニパータ  老い805の解説

805 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。

 

 

人々は、人間的思考の運動(取⇔捨)によって「わがものである」と執着した物の常住を願うために悲しむ。自己の所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、この世にとどまってはならない。人は想いによって、この世に生まれてくるが、この世は無常であるので、その執着したものは失われ、またそれを求めて生まれてくる。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動を制し、この繰り返される想いから離脱せよ。

 

スッタニパータ  老い804の解説

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。

 

 

人は、想いによって生まれてくる。それは、常住を願って生まれるのだが、ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。この世は変化ある世界であって、無常である。それを知った修行者はこの空の悟りによって、この無常の世に執着してはならぬ。この世界は苦の世界なのである。