スッタニパータ

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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03月

スッタニパータ 争闘877の解説

875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。ーこの世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(たましい)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしょうか?」

 

 

 

876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っている。

 

 

 

 

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

 

 

 

世の中の賢者と称するものたちは、ことば巧みに語るであろう。『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、精神も肉体も残りなく消滅することのうちに最上の清浄の境地があると巧(たく)みに語って論争に及ぶ。かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、自らの考えにこだわって他を排除しようとする考えもまた人間的思考であると知り解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる結び目をほどきよく気をつけ変化的生存を受けることがない。そうして彼の岸に到達するのである。

スッタニパータ 争闘874の解説

873 「どのように修行した者によって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。ーわたくしはこのように考えました。」

 

 

 

874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。ーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」

 

 

 

形態が消滅する、それは解脱である。この感覚器官すなわち眼、耳、鼻、舌、身体、意識から入る情報に対して人間的思考の想いすなわち分けてはいけないと言うことである。この情報を分けると、欲しいと想い執着をする。また、間違えて感受してごまかすわけでもない。その入った情報に対して何も想わないと言う事でもない。さらに想いを消滅したいと強く想う(離欲)でもない。この感受したものに対して気をつけることなのである。気をつけて分けないように制する。この想いを制したときに生まれて来る素因は無くなっていくのである。聖者はこの人間的思考を制し、智慧を獲得して遂には解脱するのである。

スッタニパータ 争闘872の解説

871 「世の中で感官による接触は何にもとづいて起るのですか?また所有欲は何から起るのですか?何ものが存在しないときに、〈わがもの〉という我執が存在しないのですか?何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのですか?」

 

 

 

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。」

 

 

 

 

この物質世界において、全ての存在物には、名称と形態とがある。それらを、感受器官により接触する。その時の感受のしかたが人間的思考の運動をしていた場合、快と不快という両極端に分け欲求が生じ、所有欲が生じるのである。両極端に分ける反応を制止し欲求がないときは、わがものという我執も存在しない。我執が存在しなくなると形態が消滅して感覚による接触は働かない。このように解脱していくのである。それを知って修行者は、自らの感覚器官から入る情報への反応の仕方に常に気をつけ、両極端に反応することなく中道を歩むのだ。

スッタニパータ 争闘870の解説

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか?また何がないときにこれらのものが現われないのですか?また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」

 

 

 

 

870 「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」

 

 

 

 

人間的思考の運動すなわち快⇔不快は、どこから起こるのか?それは、感覚的感受すなわち目で見て感じ、耳で聞いて感じ、鼻で臭って感じ、舌で味わって感じ、肌で感じ、意識で感じる。これらの感じたものをすぐに快と不快に分ける。この感受がなければ、快⇔不快も起こらない。この感受は人間が生起することによって、生まれてきたときに備わり、消滅すなわち死んだ時になくなる。感受によって、二元の運動が生まれ、二元の運動によって生起する。生起することによって感覚的感受が生じるのである。これによって人は輪廻する。人は知らねばならぬ。この感じ方を変えるのだ。快、不快の両極端に分けてはならぬ。その2つに分ける運動を止めて中道を保ち、荒波を渡り終わったもの。かれはもはやこの無常の世に生まれてくることはない。

 

 

スッタニパータ 争闘868の解説

868 怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

 

 

 

人は、不快を感じたときに怒り、また、快を得るために虚言を言う、そして、思い通りにならないときに疑惑が生じる。この怒り、虚言、疑惑が生じた時は、必ず人間的思考の運動をしているのである。すなわち快⇔不快の運動である。この運動をしているから寂静になれず、智慧を得ることができない。智慧を得ることができないので、疑惑が生じるのである。そして、迷いが生じ、怒りを生じ、虚言を言うと言う負のスパイラルに陥るのである。この疑惑が生じた人は、ブッダに学ぶべきである。ブッダは、この二元の運動を制し、中道を究めた者である。その智慧よって全ての理を明らかに知る。その聖者には、智慧によって疑惑は生じず、怒りもなく、虚言もない。かれこそは世の中を照らす道の人なのである。

スッタニパータ 争闘867の解説

866 「さて世の中で欲望は何にもとづて起るのですか?また(形而上学的(けいじじょうがくてき)な)断定は何から起るのですか?怒りと虚言と疑惑と及び(道の人)(沙門(しゃもん))の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

 

 

 

867 「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。

 

 

 

 

人間的思考の運動による〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は、変化しないものが生起と消滅を繰り返していると断定を下すが、この無常の世において変化しないものは存在しない。それは人の想いであり、苦しみである。人はこの無常の世において、好むものは不変を望み、好まないものに対しては変化を望む。こうして、感覚的感受に影響されて、運動をしているのである。その運動の波は、激流となって襲いかかる。そして人はその激流によっておぼれかかっているのである。それを知って、聖者は、その運動から離れ、その運動をとめる。その寂静の境地から智慧が生まれのである。

スッタニパータ 争闘865の解説

864 世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にはびこる貪(むさぼ)りは何にもとづいて起るのですか。また人が来世に関していだく希望とその成就(じょうじゅ)とは、何にもとづいて起るのですか?」

 

 

 

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。」

 

 

 

 

人間的思考(快⇔不快)の運動によって、快を求め欲望が起こる。世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また、その想いによって人が来世に関していだく希望とその成就とは、強い想いにもとづいて起る。人間は、人間的思考である快⇔不快の運動によって運動し、それを求めては大きく波をつくり運動をする。快を掴んでは落ち、また求めて上がる。それと同様に、次を求めて生まれてくるのである。たとえそれが成就しても、運動をするのでまたその状態と逆の状態が現れ、また求めるのである。人は、何度繰り返せば気づくのであろうか?人の転生で流した涙は、大海よりも多いという、それを知って聖者は、その運動を止めて彼の岸に到達し安穏を観たのである。

スッタニパータ 争闘863の解説

862 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは、どこから現われ出てきたのですか?これらはどこから起ったのですか?どうか、それを教えてください。」

 

 

 

863 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

 

 

 

人間は人間的思考の運動をするすなわち愛⇔憎である。あるときは愛し、あるときは憎しむ。それは運動をするので交互に現れるのである。よって争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは愛し好むものにもとづいた運動によって起こる。争闘と争論とは人間的思考の運動にもとづいて快を掴んだものを失いたくない慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、卑しさから悪口が起るのである。このように人が得ようと想うものと回避しようと想うものは表裏一体である。そのことを知って両極端を離れた聖者は安穏を観たのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に861の解説

861 かれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは〔欲望に促(うなが)されて〕、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれる。」

 

 

 

人間は、常に人間的思考(快⇔不快)の運動をしているので、快と感じるものを欲しては所有しようとそれを取る。所有すると執着を生むので、この無常の世では変化するたびに苦を生じるのである。そうして、次々に荒波をつくって行き平安は得られない。聖者は、世間においてわがものという所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは人間的思考(快⇔不快)の運動による欲望に促(うなが)されて、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に平安なる者と呼ばれる。

スッタニパータ 死ぬよりも前に860の解説

860 聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。

 

 

人間は、目の前に現れたものに対して執着をし、それを取る。その取ったものをわがものとし、ものおしみをして手放さない。しかしながら、この世は無常であるから、必ず手放すときが訪れ苦を生じるのである。そして他人と比較しては、勝れていると思えば、快を生じ、劣っていると思えば不快を生じる。そして快を手にしたならば、その状態に執着をしてものおしみをするのである。また、等しいと思えば安心し、等しくないならば不安になる。まさに人間的思考による運動の坩堝である。故に聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは人間的思考の運動を止めて分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。かれは煩悩の荒波を渡り終わって遂には彼の岸へ到達するであろう。