888 反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれはみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る
思考の見方である反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれはみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を立ち上げたまま他人を蔑視し、そのように語る。真理は人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を制しない限り気づく事ができないのにである。
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888 反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれはみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る
思考の見方である反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれはみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を立ち上げたまま他人を蔑視し、そのように語る。真理は人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を制しない限り気づく事ができないのにである。
887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視(べっし)し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存=人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を立ち上げてそれらを掴むなどして(他の説を)蔑視(べっし)し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。これらはまさに人間的思考の運動(真理⇔虚妄)である。
885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?
886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、自らの人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を立ち上げ、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。それは人間的思考の運動である。
884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。
人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、観察によって得られる真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の修行者は同一の事を語らないのである。
883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の(道の人)は同一の事を語らないのであろうか?
或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその見解をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の(道の人)は同一の事を語らないのであろうか?かれらは、それぞれの人間的思考の運動(真実⇔虚偽)を立ち上げ、自らの見方のみ真実と考え、その他の者を虚偽とみなすからである。故に運動による半分の範囲しか見ない者たちは、真理を見る事ができないのである。
882 諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。
人間的思考の運動(賢者⇔愚者)を立ち上げたままの諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の偏った見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。
881 またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。
またもしも人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、自ら真理を見る事によって清らかとなり、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、自ら真理を見る事によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解はその点で等しく完全であるからである。
880 もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執している=人間的思考の運動(正⇔誤)を立ち上げているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?
かれらはこのように異なった執見=人間的思考の運動(正⇔誤)をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、中道を守らないこれらのうちで、どの説が真実なのであろうか?
878 (世の中の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。
世の中の学者たちはめいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま、みずから真理への熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。中道を踏み外した状態で語る。