919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。
修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、心のうちが平安となれ。人間的思考の運動(静穏⇔ 喧騒)と言う運動である外に静穏を求めてはならない。内的に思考の運動を制し、平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。
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919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。
修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、心のうちが平安となれ。人間的思考の運動(静穏⇔ 喧騒)と言う運動である外に静穏を求めてはならない。内的に思考の運動を制し、平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。
918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と想ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか想ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想(もうそう)せずにおれ。
これ(慢心)=比較=分別によって『自分は勝れている』と想ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか想ってはならない。いろいろの質問を受けても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、自己を妄想(もうそう)せずにおれ。
917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。
内的にでも外的にでも、いかなることがら=「自らの反応の仕方」をも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それ=「慢心」が安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。
915 〔問うていわく、ー〕「太陽の裔(すえ)である偉大な仙人(ブッダ)、あなたに、遠ざかり離れること平安の境地とをおたずねします。修行者はどのように観じて、世の中の何ものをも執することなく、安らいに入るのですか?」
916 師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて。有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に在するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
師(ブッダ)は答えた、「〈われは人間的思考の運動(ある⇔ない)がもたらす考えて。〈ある〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に在するいかなる分別による妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。かれは負担をはなれて解放されている。かれははからいをなすことなく、快楽に耽(ふけ)ることなく、求めることもない。ー師はこのように言われた。
見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して分別を制し敵対することがない。かれは分別する負担をはなれて解放されている。かれは両極端を求めるようなはからいをなすことなく、何かを掴んで快楽に耽(ふけ)ることなく、求めることもない。ー師はこのように中道を歩めと言われた。
913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執着して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。
過去に分別した汚れを捨てて、新しい汚れ=分別をつくることなく、両極端がもたらす欲におもむかず、両極端に執着して論ずることもない。賢者は諸々の偏見=分別を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。
912 聖者はこの世で諸々の束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。
聖者はこの世で諸々の人間的思考の運動(正⇔誤)である両極端を求めるような束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは運動による不安な人々のうちにあっても中道を守り安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々はそれ=両極端に執着しているのだが。
911 バラモンは正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。
修行者は正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解=運動の癖を知って、心にとどめない。ー他の人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)によって、両極端に執着しているのだが。
910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。
(「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。両極端がもたらす自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらにのみ清浄となる道を認める論者は、そのように一方的に見たのである。故にかれらはその事柄のみを見るものであって全体を見ようとしないが故に真理を見る事ができないのである。
909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。
見る人は人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす名称と形態とを見る。また見てはそれらを常住=「運動の範疇ではない」または安楽であると認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらをそのように見たらよいだろう。真理に達した人々は、それを見ることによって清浄になるとは説かないからである。それらは運動の範疇にあるのであって運動によって変化していくからである。