前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、人間的思考の運動(前の師⇔後の師)による煩悩の動揺に従っている人々は、人間的思考の運動(前の師⇔後の師)がもたらす執着をのり超えることがない。かれらは、人間的思考の運動によって執着の対象をとらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。
お釈迦さまによる中道の教えは、人間的思考の運動を止めて、現象を観察し、真理を観て解脱することにある。故に師などを次々に変えたところで同じなのである。要は自らが、自らの思考の運動を止めて修行に励むことなのである。故にあの師が正しい、この師は間違えているというような想いをも捨てて、聖者は安穏を観たのである。