スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句791のご法話

前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、人間的思考の運動(前の師⇔後の師)による煩悩の動揺に従っている人々は、人間的思考の運動(前の師⇔後の師)がもたらす執着をのり超えることがない。かれらは、人間的思考の運動によって執着の対象をとらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

お釈迦さまによる中道の教えは、人間的思考の運動を止めて、現象を観察し、真理を観て解脱することにある。故に師などを次々に変えたところで同じなのである。要は自らが、自らの思考の運動を止めて修行に励むことなのである。故にあの師が正しい、この師は間違えているというような想いをも捨てて、聖者は安穏を観たのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句790のご法話

真の修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止める正しい道のほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において禍福の因=「輪廻の因」をつくることがない。

 

この世に存在するもの学問・戒律・道徳・思想どれをとっても人間的思考の運動に基づいて成り立っている。清らかと言うのは、自らの人間的思考の運動を止める事によって、両極端の穢れから離れる事によって清らかとなる。つまり、両極端を掴もうとする行為が穢れであり、それを離れた清らかな眼、つまり中道による眼で世の中を観察した時に初めて真理を観る事が出来るのである。その真理を自らの眼で見た時、その修行者の輪廻の因は無くなる=解脱するのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句789のご法話

もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは人間的思考の運動(快⇔不快)が止められない煩悩にとらわれている人が人間的思考の運動(快⇔不快)を止める正しい道以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見=「人間的思考の運動(快⇔不快)」がある人」と呼ぶ。

 

 

人間的思考の運動を止めた眼で現象を観察しないと真理を観ることはできないのであるから、見解によって真理を観ることはできないのである。故に人間的思考の運動を立ち上げたまま分別をしようとする人は、修行の道を踏み外しているのである。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句788のご法話

「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす見解を最上の境地に達し得る智慧であると誤って理解する。

 

 

人は常に人間的思考の運動(正⇔誤)をしているので、運動による見方で正しいと思った方法を清らかになると誤って理解する。聖者は人間的思考の運動を止めた眼で真理を観、思考の運動を止める事で清らかになると悟る。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句787のご法話

諸々の事物=「両極端と呼ばれる対象」に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす偏見や執着にたより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、掴まないが故に捨てることもない。かれはこの無常の世にありながら一切の偏見=「人間的思考の運動(快⇔不快)」を掃い去っているのである。

 

諸々の事物=「両極端と呼ばれる対象」に関してたより近づく人々は、全く反対意見の人々がいるのであるから、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。故にそれらを掴もうとしなければ言いがかりを受けることもない。この無常の世は、生から死への運動への道なかばである故にその運動を止める人かれこそはその運動から離脱する聖者なのである。

 

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句786のご法話

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、両極端を手放し、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして何かを掴もうと輪廻に赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。それは輪廻からの解脱である。

 

人間的思考の運動(正⇔誤)を止める事が出来なければ、人は正を追いかけてその人が正しいと思う眼で世の中を見る。彼が誤りだと思う対象を排除する。かれらはそれ(正しいと思う対象)を手に入れるためにはいつわりと驕慢に陥る故にそれらを追い求めてまた生まれてくるのである。人間的思考の運動(正⇔誤)を止めて、それらへの想いを捨て去った聖者はもはやそれらを追い求めることもなく輪廻から解脱するのである。

 

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句785のご法話

諸々の事物に関する固執=「自らの運動の癖」はこれこれのものであると確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの偏執の住居(すまい)のうちにあって、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、不快と感じてはものごとを斥(しりぞ)け、また快と感じてはこれを執(と)る。

 

お釈迦さまの中道の修行それは自らの反応の仕方、自分がどのような反応の仕方をするのかをよく観察し、気づく事から始まる。そしてその反応の仕方に気づけばそれを止めるのである。気づいて止めるその繰り返しである。その制御機能が働くようになれば自然とそれが立ち上がる止められるようになる。修行をしない人々は、人間的思考の運動を立ち上げては両極端を掴み無常の世でそれらを失い苦しむのである。故に修行者は怠ることなく自らの人間的思考の運動を止める事に努め安穏を観たのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句783のご法話

修行僧が自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、平安=中道となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、中道を歩むかれは〈高貴な人〉である、と真理に達した人々は語る。

 

修行者がよく陥る人間的思考の運動で、戒律を守る⇔守らないという運動がある。これは、守ると「安心」し、守れなければ「不安」となるような運動である。故に中道を目指す修行者は、自らのこのような運動にもよく気をつけ、中道を守り遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句782のご法話

人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらし、褒められたいと言う人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がっているのであるから、かれは修行を怠っている人である、と真理に達した人は語る。

 

 

自分の修行が進んでいるかどうかは、他の修行者にとっては関係のないことであって、そこには、褒められたいと言う想いが潜んでいる。中道を守る修行は人間的思考の運動を止める事であるから修行者は常に自らの想いに気をつけ中道を守り遂には真理を観るのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句781のご法話

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止められず、欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずからの人間的思考の運動(快⇔不快)による分別がもたらす偏見を完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

 

お釈迦様の修行を進めるには、自分の人間的思考の運動を止めなければならない。何故か?運動が止まらない状態では、自分の好みに基づいて物事を見るからである。そうしては、自分勝手な考えに基づいて判断してしまう。それでは、真理を観ることはできないのである。故にお釈迦様の中道を歩む修行ではまず、自分の人間的思考の運動を止めることに注意を払う。運動したと気づいたら止めるのである。止める事によって自分の偏った見方が修正され真理へと近づくのである。