スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ817のご法話

修行者が、中道から道を踏み外し、「人間的思考の運動(快⇔不快)=両極端」を求めるのならば、かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ。

 

 

修行者は、中道すなわち人間的思考の運動(快⇔不快)」を制した眼で観察を行うのが修行である。故にそれらを怠って人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端を求めるのであれば、どこが聖者と呼べようか?それを知って修行者は怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ816のご法話

かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、中道を踏み外し両極端へと車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

 

 

人は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて両極端を追い求める時、中道を保てないのであるから、真理を観る事はできない故にその状態は凡夫なのである。故に修行者は、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、それらを制し、遂には安穏を観たのである。

 

スッタニパータ  ティッサ・メッテイヤ814のご法話

師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は人間的思考の運動(快⇔不快)を制すると言う教えを失い、両極端を求めて、邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しい=「運動に引き込む」ことがらである。

 

 

中道を目指す修行者は人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端を追い求めてはならない。それらを制するのが修行なのである。この無常の世で掴むことのできないもの(両極端)を追い求める事。それすなわち苦である。そのことを知って聖者は、自らの人間的思考の運動を制して遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 老い813のご法話

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端による邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは中道以外の他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは両極端に対して貪らず、また嫌うこともない。

 

人と聖者の違いは何であろうか?人は両極端を常に追い求めている。すなわち人間的思考の運動(快⇔不快)の快を求めあるいは不快を退ける。聖者は人間的思考の運動(快⇔不快)に常によく気をつけそれらを制し、中道を歩むものである。

 

スッタニパータ 老い812のご法話

たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道を保つことによって両極端に汚されることがない。

 

 

蓮華の上すなわちどんな水をも弾く心構えそれは常に気をつける事によって保たれる。両極端に対しての誘惑はその呼び水のように修行者を誘惑する。智慧ある修行者は、それらを常に気をつける事によって回避する。すなわち蓮の葉のようにである。もはや両極端は弾かれて聖者を侵すことはない。

スッタニパータ 老い811のご法話

聖者はなにものにもとどこおることなく、人間的思考の運動(愛⇔憎)を制し、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。そのように運動による両極端を制し中道を保つ。

 

 

人は物事を「好き⇔嫌い」に分け好きなものを愛する。しかし、それは運動をするので愛はやがて憎しみへと変化する。もしも人の愛するものが思い通りにならないならばその愛は憎しみへと変化するのである。そしてそれらを掴んでは放そうとせず物惜しみをする。これらが「愛⇔憎」の運動である。智慧ある修行者はそのことを知ってその運動に近づかないならば、修行者の心は蓮の葉のごとくそれらの汚水を弾いて運動に汚されることはないのである。

スッタニパータ 老い809のご法話

わがものとして執着したものを貪り求める人々は、消滅する対象に対しての憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。故にまた生起と言う輪廻を繰り返す。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)=「輪廻からの解脱」を見たのである。

 

人はひとたび何かを追い求めたならば、再びそれらを掴むために輪廻へと赴く。智慧ある聖者はそれらを知って、無所有を貫きあらゆるものを捨て去って遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 老い808のご法話

「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。この世界を中道の眼で見るとき、それは、生起と消滅と言う現象に過ぎないのである。すなわち何の誰それが生起し、何の誰それが消滅した。単にそういう事なのである。

 

この無常の世では、どのような者であっても最後には消滅する。故にどのよう想いであれ、どのような過程であれ、そこにあるのは生起と消滅なのである。故にこだわってはならない。こだわりはすなわち生起の元なのである。智慧ある修行者はそのことを知って、こだわりを捨てさって遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 老い807のご法話

夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。故に再び追い求めて輪廻の渦に巻き込まれてはならない。

 

人はこの世で愛する人と会ったならば、永遠に一緒に射たいと望み、離れたくないと想う。しかしながら、この世は無常であるので、ひとたび出会った相手は必ず生別、死別を免れない。その道理を知ったならば、修行者は、あるがままにそれを知って、求めることなく、追いかける事もなく、世の中を遍歴し遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 老い806のご法話

人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれはその人の死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)=生起と消滅とを知って、全てを手放し、わがものという観念に屈してははらない。

 

この世で永遠に手もとへおいておけるものなど何も存在しない。それは、愛する人であっても、我が子でもある。修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めた中道による眼で生起と消滅とをよく観察し、真理を観、遂には解脱するのである。