諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、人間的思考の運動(称賛⇔非難)である「称賛を掴もうとした」ものは、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。
人間的思考の運動(称賛⇔非難)から逃れられないものは諸々の動揺を招く、故に修行者は自らの人間的思考の運動(称賛⇔非難)を制し、怠ることなく自らの運動に気づきそれを止めて、遂には安穏を観たのである。
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諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、人間的思考の運動(称賛⇔非難)である「称賛を掴もうとした」ものは、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。
人間的思考の運動(称賛⇔非難)から逃れられないものは諸々の動揺を招く、故に修行者は自らの人間的思考の運動(称賛⇔非難)を制し、怠ることなく自らの運動に気づきそれを止めて、遂には安穏を観たのである。
集会の中で論争に参加した者は、人間的思考の運動(称賛⇔非難)を立ち上げて称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして非難され敗北してはうちしおれ、論敵のあらさがしをしているのに、他人から論難されると、怒る。このような状況では修行からほど遠い。
人間的思考の運動(称賛⇔非難)を止める事が出来なければ、それは運動をするので、称賛⇔非難を繰り返す。時には称賛され時には非難される。ただそれだけの事である。故に修行からは程遠いこの運動を離れ、賢者は中道を歩み遂には真理を見たのである。
かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印(らくいん)し、自らが観た真理ではなく他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者であると称しながら、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて、自分が称賛されるようにと望んで。
かれらは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす高ぶる心を抑える事が出来ない。それは称賛されたいという気持ちである。故に互いを論破し攻撃をする。聖者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制するものである。その制した中道を歩むもののみ真理を観る事が出来るのである。
かれらは人間的思考の運動(清浄⇔不浄)を立ち上げて両極端の思考である「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が両極端に依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理と思い込んでいる考えに固執(こしゅう)している。
世の宗教者たちは清浄だとか不浄だとか言うであろう。しかしそれもまた人間的思考の運動(清浄⇔不浄)なのである。他のものを排除するものに真理を観る事はできない。なぜならば半分を排除し全体を観る事が出来ないものは真理が見えないからである。故に修行者は自らの想いに固執することなく中道を歩み世の中を遍歴せよ。
聖者は諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲望を顧(かえり)みることなく、それ「=運動」を離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々「=両極端を追い求めて荒波に溺れかけている人」はかれを羨(うらや)むのである。」ー
聖者というものは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、彼の岸へと渡り終わり安らぎに帰している故に両極端の束縛から解放されているのである。世の人々を見よ。なんと人間的思考の運動(快⇔不快)に束縛されて雁字搦めである。故に修行者はその束縛から解放されるためにも自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道を守る修行に努めよ。
両極端を追い求める俗事から離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。しかしこれだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。ー中道を維持することによってかれは安らぎに近づいているのだが。
人と言うものは人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端を追い求め年をとりまた追い求めては生まれてくる。故に聖者はその輪廻から解脱するために自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することに努めよ。それが解脱するための唯一の道だからである。
聖者はこの世で前後に「人間的思考の運動(快⇔不快)には」この災いのあることを知り、人間的思考の運動(快⇔不快)を制して中道を守る独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。両極端を求めて淫欲の交わりに耽ってはならない。
人はこの両極端の運動である人間的思考の運動(快⇔不快)に陥ると快を掴み不快を排除しようとするが故に全体を観る事が出来ない。全体を観る事が出来ないもの=真理を観る事は出来ないのである。それを知って聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して遂には真理を観たのである。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも中道を踏み外し、人間的思考の運動(快⇔不快)を抑えられずに、淫欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。
なぜ人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端を追い求めると愚者のように悩むのか?それは、人間的思考の運動(快⇔不快)を追い求めて快を得たとしてもそれは運動をするので不快がついてまわるからである。それは、快⇔不快と言う振り子の運動をするように交互に現れる。賢者はそれを知って運動には近づかない。故に安穏を観たのである。
そうして他人に詰(なじ)られた時にはそれをごまかそうと虚言に陥(おちい)る。すなわち[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。かれには他人からよく見られていたいと言う想いも潜んでいるのである。その想いは修行とは全く関係がない想いであり、これがかれの大きな難所である。
なじられた時になぜごまかそうとするのか?それは他人からよく思われたいと言う想いからである。それは人間的思考の運動(快⇔不快)の運動である。その想いによって更に修行と逆行するのである。なぜならば修行はその想いを制することだからである。故に修行者は怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、よく気をつけて世の中を遍歴せよ。
かれは諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲の想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。故に修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道を保ち安穏を観たのである。
両極端へのこだわりは人間の欲である。人間的思考の運動(快⇔不快)の運動には必ず快には不快が付いて回る。それは運動するので快は次第に不快へと変化する。その道理を知らなければ、困窮すること必然である。故に修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)への想いにとらわれることなく、それらの想いを制して遂には安穏を観たのである。