スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 最上についての八つの詩句802のご法話

かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)=「何かを掴み取ろうとする想い」をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないその修行者を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

 

人は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、快を掴もうと妄想し、それらを追い求めて生きてゆく。そしてこの無常の世で掴んだものを失ってまた追い求めるのである。この世は「無常=常で無い」すなわち変化してゆく世界であるから、かれらが望んだ状態は変化によって失われてゆく。故に人は嘆き悲しむのである。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動によく気をつけ、両極端を掴むことなく世の中を遍歴し遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句801のご法話

かれはここで、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)=「これだと言って掴むような想い」は、かれには何も存在しない。このように安穏を観たのである。

 

人間と言うものは常に分別し、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、快を掴もうとする。もしもそれが掴めないならば、生まれ変わってでも掴もうとするのである。それが輪廻を発生させているのである。故に修行者は、それらの想いを断ち切り、自らの思考の運動によく気をつけ、遂には輪廻から解脱したのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句800のご法話

かれは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は種々異なった見解を掴んで分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せず、いかなる見解もをそのまま信ずることはない。このように常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて遍歴せよ。

 

 

人というものは、常に分別し、その分別の結果によって行動するものである。そこには常に偏見=分別による偏った見方がある。それ故に真理を観る事はできないのである。それは、分別によって捨て去ったものを見ようとしないからである。故に修行者は、偏ることなく、常に自らの人間的思考の運動によく気をつけ、遂には真理を観たのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句799のご法話

修行において智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端である偏見をかまえてはならない。自分を他人との反応の仕方によく気をつけ「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。このように修行者は中道を保つものである。

 

修行者の中にも修行方法などを人間的思考の運動によって優劣をつけたり気づいた智慧についてもこれは素晴らしいとかあるいは戒律を守ると安心するだとかどこにでも人間的思考の運動は立ち上がるのである。修行者はそのたび気づきそれらを止め中道を歩むことによって真理へと近づくのである。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句798のご法話

人が人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と真理に達した人々は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳に対して自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、こだわってはならない。

 

 

人は人間的思考の運動を立ち上げ物事を快不快に分け、それらを掴んでは依存する。たとえそれらを掴んだとしても運動をするのでその掴んだものあるいは依存したものはいずれ失われるのである。故に修行者はそれらを掴むことなくあるいは依存することなくあるがままにとらえ、遂には真理を観たのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句797のご法話

かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げては、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。故に思考の運動を止められないかれは、真理には程遠いのである。

 

これらは、全て比較対象なのである。他と比較したところで、その方法でよいとは限らない。お釈迦様の教えは中道を守り真理を観る事であって、対立することではない。この優れているか、劣っているという事は、修行とは全く関係のないことなのである。故に修行者は、自らの人間的思考の運動によく気をつけ、中道の眼によっての気づきを積み重ね、自らが真理を観る事に努めよ。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句796のご法話

世間では、人は諸々の見解=「人間的思考の運動(快⇔不快)による見方」のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは人間的思考の運動(快⇔不快)の範疇にあり諸々の論争を超えることがない。

 

世の人々は、分別の眼で物事を判断し見ようとする。しかしながら分別の眼では真理を観る事はできない。なぜならば分別によって半分しか見ていないからである。それを知って修行者は、自らの分別=人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ中道の眼をもって遂には真理を観たのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句795のご法話

真の修行者は、煩悩=人間的思考の運動(快⇔不快)の範囲をのり超えている。かれが運動の対象である何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは思考の運動による欲を貪ることなく、また離欲=「思考の運動を離れる事を達成したいと言う欲」を貪ることもない。かれは比較対象を離れこの世ではこれが最上のものであると固執することもない。故に安らぎに帰しているのである。

 

 

この思考の運動を止める修行に熟達すると、常に気づきが生まれ反応は自然と止まる。まずは、自分だと思っている心の動きをよく観察をして止めるのである。自然とそれができるようになれば、真の修行者と言える。それが安らぎの状態である。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句793のご法話

かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことに対する人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、支配している。このように観じ、思考の運動に覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

 

修行者は、常に自らの人間的思考の運動によく気をつけ、動きが出そうな時は制御する。そうして自らをコントロールするのである。我々が自分だと思っているものそれは非常にコントロール難解なのである故に常に気をつけ制御することそれが修行なのである。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句792のご法話

みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想い=人間的思考の運動(守る⇔守らない)に耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めた中道による智慧によって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

 

 

人間と言うのは、誓戒(せいかい)をたもてば「安心」し保てなければ「不安」となるこれは人間的思考の運動(安心⇔不安)である。この運動を止められない限り真理を観る事はできない。故に智慧ある人は自らの人間的思考の運動(安心⇔不安)をも止めて真理を観たのである。