かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)=「何かを掴み取ろうとする想い」をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないその修行者を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
人は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、快を掴もうと妄想し、それらを追い求めて生きてゆく。そしてこの無常の世で掴んだものを失ってまた追い求めるのである。この世は「無常=常で無い」すなわち変化してゆく世界であるから、かれらが望んだ状態は変化によって失われてゆく。故に人は嘆き悲しむのである。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動によく気をつけ、両極端を掴むことなく世の中を遍歴し遂には彼の岸へと到達したのである。