スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ マーガンディヤ838のご法話

マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらに対する人間的思考の運動(正⇔誤)を捨て去って、両極端(正⇔誤)に固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存(何かを掴もうとこの無常の世に戻ること)を願ってはならぬ。これが内心の平安である」

 

 

教義や学問や知識と言うものは、中道の修行とは全く関係のないものである。逆にそれらにこだわると妨げになる事さえあるのだ。それは「こだわり」=人間的思考の運動だからである。故に修行者は、教義や学問や知識に対しての自らの人間的思考の運動にもよく気をつけ、世の中を遍歴し安穏へと至れ。

スッタニパータ  マーガンディヤ836のご法話

師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における過誤(かご)=「人間的思考の運動(快⇔不快)を止める修行を怠ること」を見て、両極端に固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 

 

自分の考えに固執する事それは、自分の考えを掴む=人間的思考の運動(快⇔不快)によって掴むわけであるからそれは、人間的思考の運動である。故に修行者は自らの人間的思考の運動がもたらす反応の仕方をよく見極めて知り尽くし、その反応は執着であると明らかに知って、そのような考えに固執することなく修行を行うことによって、遂には安穏を観るのである。

スッタニパータ マーガンディヤ835のご法話

師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、人間的思考の運動(愛⇔憎)がもたらす愛執(対象への執着)と嫌悪(けんお)(思考の運動による愛⇔憎の運動)と貪欲(とんよく)(対象を求め続ける事)(という三人の魔女への例え)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだと観想して、それらへの想いを退けたのである」

 

 

人間を輪廻転生させる代表的な想いに人間的思考の運動(愛⇔憎)がある。いわゆる愛と憎しみの運動である。その愛の対象に対して、もしも裏切られたならばそれは憎しみへと変化する。あるいは、自分の想いが通じなかったときも同様である。また、その想いがかなったならば、この世おける最上の喜びを感じる事が出来るであろう。故に人はそれらを追い求めて輪廻するのである。しかし、この世は無常であるからその想いは儚く崩れ去るのみである。修行者はそれを知ったならば、それらの人間的思考の運動によく気をつけその想いを立ち上げることなく世の中を遍歴し遂には彼の岸へと到達したのである。

 

スッタニパータ パスーラ834のご法話

さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いめぐらし、心中にもろもろの偏見=人間的思考の運動(勝⇔負)を立ち上げ掴んだものを考えて、自らの人間的思考の運動(勝⇔負)を制し、邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない

 

 

人間的思考の運動(勝⇔負)を立ち上げ、論争を仕掛けてくるものは、論争に勝てば真理に到達すると思っているのであろうか?かれらは称賛という自己満足のために論争を行ってるに過ぎない。故に賢者は論争から遠ざかり離れて、自らの人間的思考の運動を制して安穏を観たのである。

 

 

 

スッタニパータ パスーラ833のご法話

またかれらは人間的思考の運動(勝⇔負)を制し、対立を離脱して行い、物事をアあるがままに見、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で両極端がもたらす「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

 

 

お釈迦さまが説かれた中道の修行というものは、比較対象することが無い。なぜならばその比較対象しようとする想いを制する事こそ中道だからである。故に修行者は、その他の修行者と比較する必要なない。ただひたすら自らの思考の運動に注視し、その運動を止め、日々練磨する事こそお釈迦様の教えなのである。

スッタニパータ パスーラ832のご法話

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することができず、特殊な偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する者は人間的思考の運動(勝⇔負)を制する修行場であるここにいない」と。

 

 

偏見に固執すること、それは人間的思考の運動(正⇔誤)である。その固執する事は、人間的思考の運動であるので、真理への道(中道)を阻むことになる。故に智慧ある修行者はその事を知って自らの人間的思考の運動(正⇔誤)を制し、遂には中道を歩み安穏を観たのである。

スッタニパータ パスーラ831のご法話

たとえば王に養われてきた勇士が、人間的思考の運動(勝⇔負)を立ち上げ、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの汝に、ふさわしい、人間的思考の運動(勝⇔負)を立ち上げた真理に達した人のいるところに到(いた)れ。人間的思考の運動(勝⇔負)を制した聖者には相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

 

 

確かに戦って論破すれば称賛はされるだろう。しかしそれが何になるのだろうか?称賛されたところで解脱するわけではない。それぞれが称賛されたいという者同士が論戦するのである。それを知って聖者は、自らの人間的思考の運動(勝⇔負)を制したところに真理への道があることを知って、自らの人間的思考の運動(勝⇔負)を制しよく気をつけ遂には解脱へと至るのである。

スッタニパータ パスーラ830のご法話

心の高ぶりというものは、人間的思考の運動(快⇔不快)であり、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは人間的思考の運動(快⇔不快)に伴い慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の修行を達成せる人々=「真理を観る人」は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

 

 

人と言うのは人間的思考の運動(称賛⇔避難)である称賛されれば慢心・増上慢心が立ち上がりそのような言葉を発する。人から称賛されても真理を見れるわけではない。逆にそのような人間的思考の運動を止めない限り真理を観る事はできないのである。その理を知ったならば修行者は自らの人間的思考の運動によく気をつけ遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ パスーラ829のご法話

あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益=「人間的思考の運動(快⇔不快)」である快を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

 

 

論争は人間的思考の運動(快⇔不快)である。心が称賛を求めてうろつく。その状態では思考の運動が動いているので、真理を観る事はできない。称賛されたから真理を観るのではない。非難されたから真理を見れないわけでもない。故に智慧ある修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて安穏を観たのである。

スッタニパータ パスーラ828のご法話

これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には人間的思考の運動(得意⇔失意)が立ち上がり得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、運動を止めない限りには、真理を覚るためになんの役にも立たないからである。

 

 

論争は修行には関係が無いことである。それは人間的思考の運動(得意⇔失意)であるので、論争が起こるとある時は褒められて得意となりある時は責められて失意する。運動であるからその事を繰り返す。修行者が見るべきところは自分の内(思考の運動に注意し自らを観察する事)であって、他のと比較ではない。故に賢者は論争から離れ無論争の境地に至り遂には安穏を観たのである。