スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 死ぬよりも前に861のご法話

人間的思考の運動(快⇔不快)を制して両極端を手放したかれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは〔欲望に促(うなが)されて〕、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に中道を歩む平安なる者と呼ばれる。」

 

 

聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端に縛られることなく両極端のしがらみから解放されている。かれには所有するものはない故にそのしがらみからも解放されるのである。欲望のある人間はその欲望が赴くままに人生を歩むが聖者は欲望から解放されあるがままに真理を観るのである故にかれには平安が安住する。

スッタニパータ 死ぬよりも前に860のご法話

聖者は人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす貪りを離れ、両極端に対して慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。人間的思考の運動(快⇔不快)を制したかれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。

 

 

お釈迦様の説かれた中道の修行において他と比較することは無意味である。何故か?他より優れているから解脱するのではない他より劣っているから解脱できないこともない。等しくても解脱できるとは限らないからである。人間の世界では競い合って切磋琢磨するのであるが、仏の世界では自己鍛錬あるのみ故に修行者はそれをわきまえて、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、自らが見た真理に導かれて、彼岸へと到達せよ。

スッタニパータ 死ぬよりも前に859のご法話

世俗の人々、または道の人・修行者どもがかれを非難して貪りなどの過(とが)があるというであろうが、かれは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、自らの修行状況がわかるが故にその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

 

修行者が人からの非難などを気にかけるのは自分が良く思われたいという人間的思考の運動(良⇔悪)が立ち上がるからである。中道を目指す修行者はそのような想いにもよく気をつけ中道を常に心がけ世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 死ぬよりも前に858のご法話

かれには、人間的思考の運動(快⇔不快)が生み出す執着の対象である子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。人間的思考の運動(快⇔不快)を制したかれにはすでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

 

 

聖者というものは現象をあるがままに観る。あるがままという事は、わけないという事である。それは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道の眼で観る。それがあるがままという事なのだ。故に分けた上で人間が選ぶような物質的なものすなわち執着の対象である子も、家畜も、田畑も、地所から解放され遂には解脱へと至るのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に857のご法話

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人=中道を保つ人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、執着を渡り了(お)えた。

 

 

人間というものは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、快を追い求めるそれらをどうやったら掴めるのかを顧慮(こりょ)するのである。故にそれらを掴もうと縛(いまし)めの結び目が出来るのである。それをみて智慧ある修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に856のご法話

両極端に対して依りかかることのない人は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道による観察によって理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。修行者はこのような状態を目指すのである。

 

 

依りかかるという事は依存するという事である。人間は、人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がると、快を掴めば安心し、不快を掴めば不安となり両極端を求めて心がうろつく。このような運動を繰り返しているのである。修行者はそれらの運動によく気をつけ、運動を止めて、運動を追いかけるのではなく、あるがままに観察をする。故に真理が見えるのである。このようにお釈迦さまは言われた。

スッタニパータ 死ぬよりも前に855のご法話

平静であって、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に常によく気をつけていて、世間において他人と自分と等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。修行者はこのような状態を常に保つべきである。

 

人は、人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がると他人と自分を比較したりするものである。その状態では物事の本質をみる事は出来ない。聖者はその変化を見、かれこれがこのような状態とある時このように存在するということを明らかに知るそれが真理への道であり、平静に観るということである。故に智慧ある修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に854のご法話

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。両極端による妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。これらの思考の運動を制し、あるがままに観察することである。

 

 

人間というものは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ快を掴めば喜び、不快を掴めば腹を立てる。あるいは、快を掴んでは高慢となり、不快を掴んでは意気消沈する。このように心がうろつくのである。故に賢者はこれらの思考の運動を止めて、反応することなくあるがままに観る。その目には真理が映るのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に853のご法話

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、またなにかを掴んでも高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。このように修行を進めていくべきである。

 

 

人間というものは何かにつけ人間的思考の運動(快⇔不快)の反応をしてしまう。そのたびに人間的思考の運動を立ち上げては心がうろつくのである。そのような心では到底真理を観る事は出来ない。故に聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に852のご法話

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、(遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、何かを掴んでも、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。このように修行を進めていくべきである。

 

 

遁欲(とんよく)と言うのは、人間的思考の運動(快⇔不快)を追い求める欲の事である。ひとたびここ欲が生じると両極端を手に入れるために、手段を択ばなくなり、俗にいう下劣な思考となるいわゆる「貪り」「ものおしみ」「傲慢」が立ち上がるのである。故に智慧ある修行者は、それらの思考を離れ、よく気をつけて世の中を遍歴し遂には彼の岸へと到達するのである。