スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com


Warning: Undefined array key 0 in /home/r6286533/public_html/suttanipata.com/wp-content/themes/hpb20170224161711/breadcrumb.php on line 127
ご法話

スッタニパータ パスーラ831のご法話

831 たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの(汝に、ふさわしい、真理に達した人の)いるところに到(いた)れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

 

 

人間界のあるいは人間的思考の運動に基づいた分別それは、歓声を受け、あるいは王に褒められたものが優れていると見なされ、優れていると勇士は思い込んでいる。人間的思考の運動(快⇔不快)を制してあるがままに観る聖者は、全てを知るものである。かれに歓声あるいは誉め言葉が必要であろうか?それを求めるであろうか?かれはそれらの運動を解脱したところに存在しているのである。

スッタニパータ パスーラ830のご法話

830 心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)が起こると、それに伴い感情が反応する。その心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは感情が動き、慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「慢心によって清浄が達成される」とは説かないからである。人間的思考の運動(快⇔不快)を止めたところにこそ修行者が求めている世界が広がるのである。

 

スッタニパータ パスーラ829のご法話

829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)の運動により称賛されると喜ぶ。この喜ぶ心は果たして利益であろうか?修行者は、この人間的思考の運動(快⇔不快)を制しない限り真理を視ることは出来ない。そういう意味では、喜びも悲観もたいして変わらないのである。それらを得たところで、苦しみを乗り越えることは出来ない。それらの運動を止めた中道を歩む者こそ苦に打ち克つ者なのである。

スッタニパータ パスーラ828のご法話

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

 

 

これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)による反応により感情が揺り動かされ得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。それらの反応を制することが出来たならば、心は安穏に帰してあるがままに物事を観る事ができるのである。

 

スッタニパータ パスーラ827のご法話

827 諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。

 

 

諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)するが、それらは人間的思考の運動(勝ち⇔負け)の範疇にあり、例え勝ったとしても、あるいは負けたとしても、修行とは全く関係ないのである。むしろ、勝ち負けに反応している事に問題がある。修行とは、自らの人間的思考の運動に打ち克ち、自らを制してこそ修行と呼べるからである。

スッタニパータ パスーラ826のご法話

826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。

 

 

集会の中で論争に参加した者は、人間的思考の運動(快⇔不快)が動き出し、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、論敵のあらさがしをしているのに、他人から論難されると、怒る。すなわち自らが理想とする展開に執着をし、称賛を欲しているのである。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、それらを手放して安穏を観たのである。

スッタニパータ パスーラ825のご法話

825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印(らくいん)し、他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者であると称しながら、自分が称賛されるようにと望んで。

 

 

かれらは人間的思考の運動(快⇔不快)による快適な声(称賛)を聞きたいが故に論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を愚者であると烙印(らくいん)し、師などをかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者であると称しながら、自分が称賛されるようにと望む。それを知って修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を離れたところに真理を見いだし自らを制するのである。

スッタニパータ パスーラ824のご法話

824 かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執(こしゅう)している。

 

 

かれらは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず、自らの運動によってこだわった考え「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が運動によって依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理と思い込んでいる考えに固執(こしゅう)している。それを観て修行者は、それらのこだわりを捨て去って、自ら真理を視たのである。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ823のご法話

823 聖者は諸々の欲望を顧(かえり)みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)むのである。」ー

 

 

聖者は人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、諸々の欲望を顧(かえり)みることなく、それらを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)むのである。運動がもたらす想いそれは、人を束縛する。それを知って修行者は、運動がもたらす想いを離れ、それらを手放して安穏に至るのである。

 

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ822のご法話

822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。ーかれは安らぎに近づいているのだが。

 

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす俗事から離れて、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。しかしこれだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。ーかれは安らぎに近づいているのだが。人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、現象を観察することによってのみ真理を見いだすことが出来るのである。