スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 争闘874のご法話

873 「どのように修行した者によって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。ーわたくしはこのように考えました。」

 

 

874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。ーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」

 

 

思考の対象である現象に対してありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。ーこのように理解した者の形態は消滅する。人間的思考の運動(快⇔不快)によって立ち上がる想いによって、この無常の世が形成されるのであるから、それらを制する事である。けだしひろがりの意識=世界(この世)は、想いにもとづいて起るからである。

スッタニパータ 争闘872のご法話

871 「世の中で感官による接触は何にもとづいて起るのですか?また所有欲は何から起るのですか?何ものが存在しないときに、〈わがもの〉という我執が存在しないのですか?何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのですか?」

 

 

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。」

 

 

目の前に現れる感受の対象である名称と形態とを認識して感官による接触が起る。諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)による所有欲は運動による欲求を縁として起る。欲求がないときには、わがものという我執も存在しない。執着の対象である形態が消滅したときには感官による接触ははたらかない。

スッタニパータ 争闘870のご法話

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか?また何がないときにこれらのものが現われないのですか?また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」

 

 

870 「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」

 

 

快と不快とは、感官による接触すなわち目、耳、鼻、舌、肌、意識による感受にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。この世における生起と消滅ということの意義と、人間的思考の運動の起るもととなっているもの感官による接触を、われは汝に告げる。

スッタニパータ 争闘868のご法話

868 怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

 

 

 

怒りと虚言と疑惑、これらのことがらも、人間的思考の運動が立ち上がり、快と不快との二つの運動があるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ、修行者の達人は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて現象を観察することによって、真理を知って、諸々のことがらを説いたのである。

スッタニパータ 争闘867のご法話

866 「さて世の中で欲望は何にもとづて起るのですか?また(形而上学的(けいじじょうがくてき)な)断定は何から起るのですか?怒りと虚言と疑惑と及び(道の人)(沙門(しゃもん))の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

 

 

867 「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。

 

 

世の中の欲望は、人間的思考の運動によって快⇔不快に分ける事によって、快を掴もうとし、不快を排除しようとする分別によって、起こるのである。世の人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)によって、消滅と生起を見て、ある⇔ない言う断定を下す。修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制した観察によって理法を視て、真理を知るのである。

 

スッタニパータ 争闘865のご法話

864 世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にはびこる貪(むさぼ)りは何にもとづいて起るのですか。また人が来世に関していだく希望とその成就(じょうじゅ)とは、何にもとづいて起るのですか?」

 

 

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。」

 

 

 

世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、人間的思考の運動(快⇔不快)の運動による欲望にもとづいて起る。

人が来世に関していだく希望とその成就とは、人間的思考の運動(快⇔不快)にもとづいてそれらを掴みたいと言う欲望に基づいて起る。すなわちそれらを追い求めるかぎり欲望が成就しよとも生と死から逃れる事は出来ないのである。

 

 

 

 

スッタニパータ 争闘862のご法話

862 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは、どこから現われ出てきたのですか?これらはどこから起ったのですか?どうか、それを教えてください。」

 

 

863 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

 

人は、何故に争闘するのであろうか?それは、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす憂い。すなわち思うようにならない事。思うようにならない悲しみ。あるいは、得た上で手放したくない物惜しみ。手に入れたことによって生じる傲慢。妬みによる悪口は全て人間的思考の運動(快⇔不快)による論争によってもたらされる。故に修行者は、日々自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に気をつけて遍歴せよ。

スッタニパータ 死ぬよりも前に861のご法話

861 かれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは〔欲望に促(うなが)されて〕、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれる。」

 

 

聖者は世間において、わがものという所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは、人間的思考の運動(ある⇔ない)を制し、あるがままに観る。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)により欲望に促(うなが)されて、諸々の事物を掴もうと赴(おもむく)くこともない。かれは実にそれら人間的思考の運動(快⇔不快)を離脱したところに存在し、平安なる者と呼ばれる。」

スッタニパータ 死ぬよりも前に860のご法話

860 聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。

 

 

聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して両極端を掴むことなく貪りを離れ、掴まないが故に慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を離脱して自らの思考を制し、妄想(もうそう)分別におもむかない。これら比較することは、修行とは全く関係のないことだからである。

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に859のご法話

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、世の中を遍歴し、あるがままに理法を知るかれは、世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難にも動揺することはない。かれは全てを知るものであり、無抵抗の境地を究めるものである。