スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com


Warning: Undefined array key 0 in /home/r6286533/public_html/suttanipata.com/wp-content/themes/hpb20170224161711/breadcrumb.php on line 127
ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇897のご法話

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

 

 

 

すべて凡俗の徒のいだく、人間的思考の運動(快⇔不快)これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについての分別を制し「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?人間的思考の運動(快⇔不快)を制する者こそ修行者なのである。

 

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇896のご法話

896 (たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

 

たとい称讃を得たとしても、それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は人間的思考の運動(快⇔不快)の運動である称讃と非難との二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、人間的思考の運動(快⇔不快)を制した無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。それらを制して怠ることなく観察することである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇895のご法話

895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだけである。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて、自らの見方にこだわり、これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて一部の同じように人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げた見方の人々から称讃を博するだけである。故に修行者は、自らのこだわりを捨て去って、他とぶつかることなく、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇894のご法話

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

 

 

一方的に決定した立場に立って人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、みずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、一切の哲学的断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。世の人々は、周りとの比較、あるいは優劣によって、より優れたところに実りを見いだそうとするが、それらによって修行が成就するわけではないのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇893のご法話

893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう。

 

 

自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他の説を、人間的思考の運動(清浄⇔不浄)によって「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから人間的思考の運動によって確執(かくしつ)をもたらすであろう。修行に他は関係のない事であって、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して気づきを追究するのみなのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇892のご法話

892 ここ〈わが説〉にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもって論ずる。

 

 

人間的思考の運動(清浄⇔不浄)によって、ここ〈わが説〉にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに自らの見方に執着をし、かの自分の道を堅(かた)くたもってそれらを掴み論ずる。故に苦しみを抜け出すことは出来ないのである

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇891のご法話

891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、〈不完全な人〉である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に耽溺(たんでき)して汚(けが)れに染まっているからである。

 

 

自らの考えに固執しそれらを掴み、このわが説以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、不完全な人であると、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは人間的思考の運動(快⇔不快)によって自己の偏見に耽溺(たんでき)して汚(けが)れに染まっているからである。修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、初めて真理に気づく事ができるのであるが。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇890のご法話

890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の〈道の人〉のうち愚者は一人も存在しないことになる。

 

 

自らの修行に他者の評価は関係がないのである。もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その呼ぶ人自身は相手とともに愚劣な者となる。また、もしも自分で、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して真理を見る事によってヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の修行者のうち愚者は一人も存在しないことになる。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇889のご法話

889 かれは誤(あやま)った妄見を以てみたされ、驕慢(きょうまん)によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。

 

 

 

かれは誤(あやま)った妄見すなわち人間的思考の運動(快⇔不快)による一方的な見方に以てみたされ、自らの見方に驕り高ぶって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、かれによればそのように完全なものだからである。修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制することが出来なければ、おおよそ半分を見ないのであるから、それらの運動によって完全⇔不完全と言う運動を繰り返すのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇888のご法話

888 反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれはみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

 

 

人間的思考の運動(真理⇔愚者)を立ち上げ、反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれはみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、人間的思考の運動(真理⇔愚者)を制することが出来ず他人を蔑視し、そのように語る。かれが観ているものは、人間的思考の運動の領域であるが故に生死の領域を乗り越える事は出来ないのである。