スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句780のご法話

実に悪意=「人間的思考の運動(正⇔悪)」をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いた事を真実だと思って(人間的思考の運動(正⇔悪)を立ち上げて)(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者は自らの人間的思考の運動(正⇔悪)を制しそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない。

 

 

他人を評価しようとする心それは、人間的思考の運動である。まさに善悪の分別であり、お釈迦様の中道の修行を行う者は常に自らの思考の運動によく気をつけそれらへの想いを制しないといけない。分別をしている限り真理を観ることはできないからである。修行者の心に分別の想いが立ち上がる時、その目は全体を観ることができない。なぜなら分別によって半分を排除しているからである。故に修行者は、自らの人間的思考の運動によく気をつけ、中道を維持して世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句779のご法話

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端への想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、両極端に対して所有したいという執着に汚されることなく、両極端を掴もうとする煩悩の矢を抜き去って、運動を止める事をつとめ励んで行い、人間的思考の運動(この世⇔かの世)であるこの世をもかの世をも望まない。

 

 

お釈迦様の中道を維持する修行である自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制する修行を進めて行くと、それらに対する自分の反応の仕方(癖)がよくわかるようになる。そうすると、このような時はこのような反応をすると分かれば、おのずと気をつけないといけない瞬間がわかるようになってくる。そうして、よくその運動に気をつけながら修行を進めて行く。人間というのは、この世(生きている世界)と彼の世(死んだ後の世界)を行き来しながら輪廻しているのであるから、中道を歩みつつ、それらの人間的思考の運動(この世⇔彼の世)をも止めて輪廻からの解脱へと向かうのである。

 

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句778のご法話

賢者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて両極端に対する欲望を制し、感官と対象との接触による自らの反応の仕方である癖を知りつくして、貪ることなく努める。自責の念にかられるような両極端に対する貪りを制して、見聞することがらに汚されない。このように中道を歩むのである。

 

人間というのは、日々分別の連続である。故に常に自らを見張っておく必要があるのだ。少しでも放っておくと人というのは貪り求める。そうしては、それらを追いかける忙しい日々を過ごすことになるのである。そのような状態では到底心理を観ることなどできない。故に修行者は、怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、遂には真理を観たのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句777のご法話

何ものかをわがものであると執着して動揺している人々を見よ。無常の世で何かを求めるかれらのありさまはひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、この世の無常を感じ「わがもの」という思いを離れて行うべきである。ーそれらを掴もうと言う想いによって諸々の生存に対して執着することなしに。

 

 

この世は「無常=常で無い」変化する世界であるから、この世で何かを掴もうとしてもそれは必ずその手から離れてゆく。その対象に執着をするという事は苦しみである。故に修行者は、この世の無常を観て、対象を手放し、その苦しみの想いから解放されよ。それらを掴むこと、すなわち苦しみを掴むことであるからである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句776のご法話

この世の人々が、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)をとめられず諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する人間的思考の運動(快⇔不快)による両極端の妄執を離れないで、死に直面して泣く。全て手放さないといけないからである。

 

私たちが住んでいる世界。この世界は両極端の世界である。何故か?すなわち生と死の世界である。この世の中の誰でも、生で始まって死で終わる。つまり、何者をも死を逃れれることはできないのである。生を掴めば必ず死が付いて回る。この世の人々は、生を得て、人間的思考の運動である快を追い求めて生まれてはまた死んでゆく。この繰り返しののである。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、それら両極端を手放し、この果てしなく続く繰り返しの世界から脱出せよ。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句775のご法話

だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端を掴もうとして不正を行ってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に常に気をつけて修行を進めれば、それらを掴もうとはしない。ましてや不正をしてまでも手に入れるなどもってのほかである。故に修行者は、人間的思考の運動の想いから離れて安穏を観たのである。人の人生は短いのであるから、死ぬまでには両極端への想いを手放すのである。そうすれば、輪廻から離れて彼の岸へと到達するであろう。

 

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句774のご法話

かれらは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、両極端への欲望を貪り、熱中し、運動の波に溺(おぼ)れて、それらを掴んでは吝嗇(りんしょく)(物惜しみ、ケチ)で不正になずんでいるが、死時には全てを手放す苦しみにおそわれて悲観する、ー「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。かれらは手放したものをまた掴みたいと言う想いによってまた生まれてくるのである。

 

この世は無常であり移り変わる世界であるから、何かを掴んだとしても必ず手放さないといけない。それは、自らの身体もそうであり目の前に現れる人、物もそうなのだ。それをわからずに、手放せない人々は、輪廻の激流に飲み込まれて行きまたこの無常の世に生まれてくる。そこにあるのは、どのような人生を歩んだとしても、生で始まり死で終わる。ただそれだけのことなのである。この無常の世にあるのは、生起と消滅なのである。それをみて、それらを手放すことによって世の智者は安穏を観たのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句773のご法話

人間は、目の前に現れたものをすぐに好き、嫌いに分け好きなものを求め、嫌いなものを排除するのが常である。その運動に自らが気づいて止めるしかないのである。周りの人が、あなたの心を、あるいは反応の仕方を気をつけることは不可能である。実に人間は、未来に分別した好きなものを思い描き、過去のことにも「あの時、ああすれば良かった」などとあれこれ考えながら心は激流に溺れこの無常の世において、好きなものを手に入れては、それを常なものと願っては、この変化する世界で苦しむのである。人は、知るべきである。自らの反応の仕方に気をつけること。これこそが自らの苦を回避するする方法であり技法である。全ての想いを止めて歩む道そこに安穏があるということを。

 

これはまさに我々人間が人間的思考のまま生きると自然とこうなります。このページを見ている方も身に覚えがあるでしょう?私もそうでした。その想いが人を輪廻させるもとになっているのです。この癖ともいえる習慣を修行者は、正し、止めて彼の岸へと進むのです。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句772のご法話

窟(いわや)(身体)のうちにとどまり、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端に執着し。多くの(煩悩)に覆(おお)われ、迷妄(めいもう)のうちに沈没している人、ーこのような人は、実に運動から遠ざかり離れること=(厭離)(おんり)から遠く隔(へだ)たっている。実に無常の世にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。

 

人は、この人間という身体を求めて生まれてくる。それは、前世での想い。成し遂げられなかった想いからである。そのような人々は、この無常の世から遠ざかる修行をしようともしない。そうしては、掴むことのできないこの無常の世に生まれてくては、また次なる想いへと向かう。これが輪廻なのである。この無限の苦しみのループから抜け出すこと。それが厭離なのである。故に修行者は、怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、中道の目によって、この世を観察し実相をさとってこの世から離れるのである。

人間が求める両極端への欲望

人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端(快⇔不快)の思考によって分けたものを得ようと望んでいる人が、その好きなものを得たならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。もしも、それを得ることができなければ、かれは矢に射られたかのように苦しむ。

足で足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執着をのり超える。

ひとが、田畑、宅地、黄金、牛馬、奴婢(ぬひ)、僱人(やといにん)、婦女、親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、無力のように見えるもの諸々の煩悩がかれにうち勝ち危い災難がかれをふみにじる。失われるものを掴もうとする想いによって苦しみがかれにつき従う。あたかも壊(やぶ)れた船に水が浸入するように。

それ故に、人は常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、すべてを手放し、彼の岸へ到達せよ。