スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 老い805のご法話

人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。この無常の世では、自己の所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家=「人間的思考の運動(快⇔不快)の領域」にとどまってはならない。

 

無常と言うのは書いて字のごとく常で無いという事である。人は「両極端=人間的思考の運動(快⇔不快)の快」を掴めたとしてもそれは運動をするので必ず失われてゆくつまり反対のものへと変化するのである。例えば人が美味しいものをたくさん食べたとしようそれは食べれば食べるほどおなかがいっぱいになりそのうち苦しくなる。それと同様に生⇔死の生を掴んだとしようそれはそのうち死へと変化してゆく。そう、この世で死なないものなどいないのである。故に修行者は、それらの運動による両極端を手放し、人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて運動を止め遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 老い804のご法話

ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。この世は無常である。生まれてきた生命は、必ず死を迎える。このことを知った修行者は、この無常の世に愛着を持ってはならない。

 

 

人は、この世で「ああしたい」「こうしたい」と言う想いがある。そして道半ばで寿命が尽きた時、また生まれたいと言う強い思いが生まれその想いによってまた生まれてくる。この世に生まれた者には必ず死が付きまとう故にこの世に愛着を持ってはならないのである。人の寿命は短いものである故に修行者は寿命が尽きる前にそれらの想いを断ち切ってその想いから解脱し遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句803のご法話

かれらは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、妄想分別をなすことなく、いずれか一つの偏見を特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。真の修行者は戒律や道徳によって導かれることもない。自ら中道の眼によって真理を見る。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

 

人間と言うものは常に人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がっており自らが快と思う「偏見=考え方」を掴み満足をする。そのように戒律や道徳を追い求め熱中する。ただ、そのような状態ではどちらか「一方=自分が正しいと思った考え方」しか見る事が出来ず全体を観察できないので真理に到達することはできない。故に修行者は、自らが守った戒律や道徳に満足することなくそれらに対する人間的思考の運動(快⇔不快)をも止めて中道を保ち遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句802のご法話

かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)=「何かを掴み取ろうとする想い」をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないその修行者を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

 

人は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、快を掴もうと妄想し、それらを追い求めて生きてゆく。そしてこの無常の世で掴んだものを失ってまた追い求めるのである。この世は「無常=常で無い」すなわち変化してゆく世界であるから、かれらが望んだ状態は変化によって失われてゆく。故に人は嘆き悲しむのである。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動によく気をつけ、両極端を掴むことなく世の中を遍歴し遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句801のご法話

かれはここで、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)=「これだと言って掴むような想い」は、かれには何も存在しない。このように安穏を観たのである。

 

人間と言うものは常に分別し、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、快を掴もうとする。もしもそれが掴めないならば、生まれ変わってでも掴もうとするのである。それが輪廻を発生させているのである。故に修行者は、それらの想いを断ち切り、自らの思考の運動によく気をつけ、遂には輪廻から解脱したのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句800のご法話

かれは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は種々異なった見解を掴んで分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せず、いかなる見解もをそのまま信ずることはない。このように常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて遍歴せよ。

 

 

人というものは、常に分別し、その分別の結果によって行動するものである。そこには常に偏見=分別による偏った見方がある。それ故に真理を観る事はできないのである。それは、分別によって捨て去ったものを見ようとしないからである。故に修行者は、偏ることなく、常に自らの人間的思考の運動によく気をつけ、遂には真理を観たのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句799のご法話

修行において智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端である偏見をかまえてはならない。自分を他人との反応の仕方によく気をつけ「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。このように修行者は中道を保つものである。

 

修行者の中にも修行方法などを人間的思考の運動によって優劣をつけたり気づいた智慧についてもこれは素晴らしいとかあるいは戒律を守ると安心するだとかどこにでも人間的思考の運動は立ち上がるのである。修行者はそのたび気づきそれらを止め中道を歩むことによって真理へと近づくのである。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句798のご法話

人が人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と真理に達した人々は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳に対して自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、こだわってはならない。

 

 

人は人間的思考の運動を立ち上げ物事を快不快に分け、それらを掴んでは依存する。たとえそれらを掴んだとしても運動をするのでその掴んだものあるいは依存したものはいずれ失われるのである。故に修行者はそれらを掴むことなくあるいは依存することなくあるがままにとらえ、遂には真理を観たのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句797のご法話

かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げては、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。故に思考の運動を止められないかれは、真理には程遠いのである。

 

これらは、全て比較対象なのである。他と比較したところで、その方法でよいとは限らない。お釈迦様の教えは中道を守り真理を観る事であって、対立することではない。この優れているか、劣っているという事は、修行とは全く関係のないことなのである。故に修行者は、自らの人間的思考の運動によく気をつけ、中道の眼によっての気づきを積み重ね、自らが真理を観る事に努めよ。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句796のご法話

世間では、人は諸々の見解=「人間的思考の運動(快⇔不快)による見方」のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは人間的思考の運動(快⇔不快)の範疇にあり諸々の論争を超えることがない。

 

世の人々は、分別の眼で物事を判断し見ようとする。しかしながら分別の眼では真理を観る事はできない。なぜならば分別によって半分しか見ていないからである。それを知って修行者は、自らの分別=人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ中道の眼をもって遂には真理を観たのである。