ご法話

ご法話

お釈迦さまが説かれた教えとは?

皆さんおはようございます。今日はお釈迦様の誕生日ですね!と言う事で、今日はお釈迦さまが何を説かれたのか?と言う事をお話ししようと思います。お釈迦さまの時代、今もそうですが、非常に苦しんでいる人が多かった。人は何故苦しみのか?苦しみを脱するに...
ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇910のご法話

910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そ...
ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇909のご法話

909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからで...
ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇908のご法話

908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、自らの人間的思考の運動(称賛⇔非難...
ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇907のご法話

907 真の修行者は、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。自らの人間的思考の運動(称賛⇔非難)を...
ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇906のご法話

906 かれらは人間的思考の運動(称賛⇔非難)を立ち上げては自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。人間的思考の運動を立ち...
ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇905のご法話

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、人間的思考の運動(完全⇔下劣)を立ち上げたまま他人の教えを劣ったものだ...
ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇904のご法話

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見=人間的思考の運動(完全⇔下劣)をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。真理というものは、人間的思考...
ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇903のご法話

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。比較対照する時点で人間的思考の運動(最...
ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇902のご法話

902 人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず両極端をねがい求める者には欲念がある、また、両極端を掴もうとするはからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、人間的思考の運動(生⇔死)を止めたものーかれは何を怖(...