スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇910のご法話

910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。

 

修行者が修行の過程において、何かを見、あるいは知った時に、「これだ」と思いそれらを掴むのであれば、それは執着である。掴んだ時点でかれらはその掴んだものに依存しているのである。そうして、その掴んだもののみしか見ないのであれば、全体を見る事ができない。全体を見ないのであれば一部分しか見ないのであるから真理には到達しないのである。それを見て智慧ある修行者は、何ものにも依存することなく偏った見方をせず、全体を見る事によって、遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇909のご法話

909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて物事を見る人間はその両極端による見方で常住あるいは安楽であると判断してしまう。それらを手に入れたとしても思考の運動が動いているのであるから真理に達した聖者は、それらによって清浄になるとは説かないのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇908のご法話

908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、自らの人間的思考の運動(称賛⇔非難)を止めて真理を見るという正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

 

ある修行者は立派な師匠につけば修業が進むと考える者もいるであろう、しかしその師匠が体験したもので解脱できるわけではない。解脱するには自らの人間的思考の運動を止めた眼で真理を見るしかないのである。ましてや他の師匠に頼っているようでは解脱には程遠いということを知るべきである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇907のご法話

907 真の修行者は、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。自らの人間的思考の運動(称賛⇔非難)を止め、自らが真理を観るからである。

 

 

真の修行者は何故他人に導かれることが無いのか?真理というものは他人から教えてもらう事が出来ないからである。それは悟りと言われる所以で、自ら悟るしかないのである。どのように悟るのか?自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて観察によって悟るのである。人間的思考の運動(快⇔不快)を止める修行なのであるから両極端に固執する事は無い。自分の考えが正しいとかあの人はおかしいとか分別しないのである。それを知って智慧ある修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止める事に怠ることなく努め遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇906のご法話

906 かれらは人間的思考の運動(称賛⇔非難)を立ち上げては自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。人間的思考の運動を立ち上げたまま真理を観る事はできないにもかかわらずである。

 

 

自らの見方に愛着を持つとそれは人間的思考の運動(快⇔不快)である。故に自らを称賛する。人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げると真理は遠のくのであるから、懸命な修行者は常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて安穏を観たのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇905のご法話

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、人間的思考の運動(完全⇔下劣)を立ち上げたまま他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

 

 

他人の主張を評価することは修行とは全く関係が無い事である。評価をする時点で人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がるからである。故に懸命な修行者は、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて、遂には彼の岸へと到達したのである。

 

 

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇904のご法話

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見=人間的思考の運動(完全⇔下劣)をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。

 

真理というものは、人間的思考の運動(完全⇔下劣)を止めないとみる事が出来ない。故に思考の運動を立ち上げて論争する事はその時点で思考の運動が立ち上がっており言ってることが本末転倒なのである。故に修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて常に修行に励むべきである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇903のご法話

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。比較対照する時点で人間的思考の運動(最高⇔下劣)から逸脱していないのである。

 

人は何故教えを最高だとか下劣だとか分別するのであろうか?それは人間的思考の運動(最高⇔下劣)が立ち上がっているからである。その状態では真理を観る事はできない。つまり中道を踏みはずしているからである。故に智慧ある修行者は自らの思考の運動に日々よく気をつけ安穏を観たのである。

 

皆さん新春のお喜びを申し上げます。

今年も日々思考の運動によく気をつけて過ごされるとそこから気づきが生まれそれが智慧となります。目の前には様々な現象が現れます。それは思考の運動のように両極端に現れます。それらを真理とみて、そのようなものだとみて、それらにとらわれずに観察する事によって安穏を観る事が出来るでしょう。

今年も皆様にとって良い年となりますように精進されてください。

 

合掌

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇902のご法話

902 人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず両極端をねがい求める者には欲念がある、また、両極端を掴もうとするはからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、人間的思考の運動(生⇔死)を止めたものーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

 

 

この世において願い求めるものすなわち人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端を掴もうとするものは必ず輪廻転生する。その願いによってまたこの無常の世に生まれてくるのである。この世は無常=移り変わるのであるからその願いはかなえられたとしてもまた時と共に失われて行く。そうして人はこの無限輪廻の世界から抜け出せないのである。それを知って聖者はそれらの想いを捨て去ってこの世の真理を知り遂には彼の岸へと到達したのである。

 

2024年も今日で終わりを迎えます。皆さんいかがお過ごしでしたでしょうか?このスッタニパータの解説をご覧になることによりお釈迦様が何をおっしゃられたのか?はわかられたと思います。あとは、実践あるのみです。日々中道を歩むことによって必ず彼の岸へと到達できます。皆さん2025年良いお年を迎えられるように日々精進なさってください。

合掌

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇901のご法話

901 あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、人間的思考の運動(清浄⇔不浄)と言う分別を止められず妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

 

 

人は、何かを求めて生まれ変わりまた死を迎える。解脱とはその生まれ変わりから解脱することを指す。どうであろうか?この無常の世にまた生まれてきたいと思うであろうか?そうは思わない人も多いであろう一部の特権階級の人々はまた同じような生存を求めるであろうがそれでもまた死を迎えるのである。それは死では解決しない。人は想いによって生まれてくるからである。「今度生まれてくる時には」と思えばやはり生まれてくる。そうならないためにはこの世の実相を知るべきである。つまり真理である。真理は人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がったままではみる事が出来ない。故にお釈迦さまは中道を説かれたのである。苦行を行えば何かを得られるかもしれない。ただそれを求める事それも両極端を求める事なのである。修行者はそれらへの想いを捨てさって中道を維持しその観察をもって実相(真理)を知り、その気づきによって解脱するのである。