スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ解説

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇 904の解説

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。

 

 

かれらは自分の教えを自らの一方的な見方で「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執着した見方をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。それぞれがそれぞれの人間的思考の運動による反応の仕方で自らの考えに執着をしているのである。そうしてそれぞれの想いにより激流に飲み込まれるのである。修行者は、それを知って、自らが知ったこと、聞いたことに執着をしてはならない。それらの人間的思考の運動をも制して聖者は安穏を観たのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇 903の解説

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。

 

 

 

或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。

 

かれらは双方とも見方が違うからである。自らが奉ずるものは最高でありそれ以外は下劣という見方である。お互いにそう見ている。まさに人間的思考の運動による反応の仕方である。修行者は、自らの反応の仕方によく気をつけ、これが最高だとか、下劣だとか想うことなく、常に中道を保って世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇 902の解説

902 ねがい求める者には欲念がある、また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

 

 

 

人は、人間的思考の運動(快⇔不快)により快を求め願い求めるそれは、すなわち欲念である。そして人間的思考の運動による不快を恐れおののき、はからいをする。ねがい求める者には欲念がある、また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、すなわち人間的思考の運動を制したものーかれは、快⇔不快の運動をしないものーかれは、何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。修行者は、自らの人間的思考の運動を制する事によって、欲念と恐れから解放されるそして、遂には安穏を観るのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇 901の解説

901 あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

 

 

 

あるいは、人間的思考の運動により求めるものを得るために、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、人間的思考の運動による妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。人間的思考の運動にもとづいた何かを得るために修行するのではない、人間的思考の運動を止める事に集中をして修行するのである。かの聖者は、自らの荒波を制し遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇 900の解説

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。

 

 

 

一時的な安心を得るための一切の戒律や誓いをも捨て、世間の「罪過(ざいか)あり」或いは「罪過なき」と言う人間的思考の運動による、この宗教的行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいって人間的思考の運動にもとづいた、ねがいを求めることもなく、それらの運動にとらわれずに行え。ー「安らぎ」と言うことばに固執することもなく。このような運動は、全て人間的思考の運動である。ある⇔ない、あるいは、清浄⇔不浄である。世の人々は、「安らぎ」という言葉にとらわれ人間的思考の運動による反応をする。それが激流なのである。修行者は、この世に存在する様々な人間的思考の運動によく気をつけ、制止して世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇 899の解説

899 もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

 

 

 

もしもかれが戒律や制戒を守ったならば「安心」し、戒律や制戒を破ったならば、かれは戒律や制戒のつとめにそむいて、おそれおののき「不安」となる。それのみならず、かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めて執着をしている。たとえば隊商からはぐれた商人が隊商を見つけたときは「安心」し、家から旅立った旅人が家を見つけたときは「安心」するようなものである。人間的思考の運動である「安心」⇔「不安」という運動をしているのである。修行者は、このような人間的思考の運動にもよく気をつけ、何かに頼ってはならない。安心とは、荒波の上に泡を作るようなものである。その泡は、無常の世では、儚くも崩れ去り不安へと変化する。修行者は、泡を作らず、何かに頼ることもなく、自らの反応の仕方に日々注視して荒波を乗り越え、遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇 898の解説

898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

 

 

 

戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、真理に達した者と称する人々は、人間的思考の運動(安心⇔不安)を止める事ができず、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。すなわち、制戒を守る事によって生れる「安心」と守れなかったときに生れる「不安」との二元の運動である。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇 897の解説

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

 

 

 

すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解、すなわち人間的思考の運動による見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて人間的思考の運動により2つに分けて「これだ」と認め知ることがなく人間的思考の運動を制しているので、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?智者とは、この人間的思考の運動に常に気をつけ、立ち上がらないように制し寂静なのである。

 

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇 896の解説

896 (たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

 

 

たとい称讃を得たとしてもそれは僅かなもの(一部の同じ見方をしている人だけ)であって、平安を得ることはできない。論争に及ぶ者の人間的思考の運動は、『称讃⇔非難』との二つの運動を繰り返すだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、修行者は、無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。修行者は、様々な人間的思考の運動を制したのち遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ  並ぶ応答ー長篇 895の解説

895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだけである。

 

 

 

人間的思考の運動による分別を積み重ねたあげく、これらの偏見を固執して、その分別の結果「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、人の見方はそれぞれだからである。また、それについて一部の人々すなわち同じような見方をしている人々から称讃を博するだけである。いずれにしても、人間的思考の運動による範疇にあり、激流の渦に巻かれている。それを知って修行者は、人間的思考の運動による分別を繰り返してはならない。その運動を制してこそ安穏を観ることができるのである。