853 快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。
人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢⇔消沈の運動を制し高慢にならず、常に、中道を歩み、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、両極端に信ずることなく、なにかを排除しようと嫌うこともない。このように聖者は歩むのである。
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853 快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。
人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢⇔消沈の運動を制し高慢にならず、常に、中道を歩み、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、両極端に信ずることなく、なにかを排除しようと嫌うこともない。このように聖者は歩むのである。
852 (遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。
人間的思考の運動からなる遁欲(とんよく)などから遠ざかり、両極端による欲望を回避し、それを得るためにいつわることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、得たものを慳(ものおし)みせず、得ても傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、得られなくとも両舌(かげぐち)を事としない。このような、人間的思考の運動による両極端の想いを制して中道に帰するのである。
851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。
人間的思考の運動による反応の仕方で、未来を願い求めることなく、過去を思い出しては、運動し、憂(うれ)えたりすることもない。現在も感官で触れる諸々の対象について分別することなく、遠ざかり離れることを観じ、諸々の両極端による偏った見方に誘われることがない。そのようにして聖者は、中道へと近づくのである。
850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。
かの聖者は、物事が立ち上がった場合にどのような反応の仕方をするのか?怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。また、それらと正反対の反応の仕方をも制して両極端の反応をしない。このような反応の仕方だと知れ。すなわち両極端の反応の仕方を制して貪瞋癡で返さない反応の仕方なのである。
848 「どのように見、どのように戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたしに説いてください。」
849 師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。
師は答えた、「死ぬよりも前に、人間的思考の運動を完全に制止し、妄執を離れ、過去に起こった事に対しても想い巡らすことなく、人間的思考の運動による想いを制して、現在においてもくよくよと人間的思考の運動による感情が動いて思いめぐらすことがないならば、かれは未来に関しても特に人間的思考の運動による想いが動くこともなく、思いわずらうことがない。このように修行を積んだ者が安らかなのである。
847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」
人間的思考の運動による想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。人間的思考の運動を止めて、智慧によって解脱(げだつ)した人には、運動をしないので、迷いが存在しない。人間的思考の運動による両極端の想いと偏った見方とに固執した人々は、互いに両極端の想いに固執して、衝突しながら、世の中をうろつく。」
846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。
修行の達人は、見解についても、思想についても、人間的思考の運動(快⇔不快)による反応の仕方に至ることがない。かれの修行は両極端の思考ではないからである。かれは宗教的行為によっても分別しないし、また伝統的な学問によっても分別しない。かれは人間的思考の運動による執着の巣窟に導きいれられることがない。
845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。
竜(修行完成者)は、諸々の人間的思考の運動による偏見を離れて世間を遍歴するのであるから、それら両極端に固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は、人間的思考の運動を止め、平安を説く者であって、両極端を貪(むさぼ)ることなく、自らの欲望にも周り(世間)にも汚されることがない。
844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。
家を捨てて、住所を定めずにさまよい、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制し村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の人間的思考の運動がもたらす欲望を離れ、未来に両極端の望みをかけることなく、人々に対して人間的思考の運動(正⇔誤)による異論を立てて談論をしてはならない。その人間的思考の運動を制する事こそが修行だからである。
843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。
そのバラモンはどうして『わが説は真実である』と論ずるであろうか。またかれは『汝の説は虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?かれは、人間的思考の運動によって両極端の運動をしているのである。人間的思考の運動を制して『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。もはや、かれは、両極端を超越し、安穏の地に住しているのである。