スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com


Warning: Undefined array key 0 in /home/r6286533/public_html/suttanipata.com/wp-content/themes/hpb20170224161711/breadcrumb.php on line 127
ご法話

スッタニパータ 最上についての八つの詩句798のご法話

人が人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と真理に達した人々は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳に対して自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、こだわってはならない。

 

 

人は人間的思考の運動を立ち上げ物事を快不快に分け、それらを掴んでは依存する。たとえそれらを掴んだとしても運動をするのでその掴んだものあるいは依存したものはいずれ失われるのである。故に修行者はそれらを掴むことなくあるいは依存することなくあるがままにとらえ、遂には真理を観たのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句797のご法話

かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げては、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。故に思考の運動を止められないかれは、真理には程遠いのである。

 

これらは、全て比較対象なのである。他と比較したところで、その方法でよいとは限らない。お釈迦様の教えは中道を守り真理を観る事であって、対立することではない。この優れているか、劣っているという事は、修行とは全く関係のないことなのである。故に修行者は、自らの人間的思考の運動によく気をつけ、中道の眼によっての気づきを積み重ね、自らが真理を観る事に努めよ。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句796のご法話

世間では、人は諸々の見解=「人間的思考の運動(快⇔不快)による見方」のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは人間的思考の運動(快⇔不快)の範疇にあり諸々の論争を超えることがない。

 

世の人々は、分別の眼で物事を判断し見ようとする。しかしながら分別の眼では真理を観る事はできない。なぜならば分別によって半分しか見ていないからである。それを知って修行者は、自らの分別=人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ中道の眼をもって遂には真理を観たのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句795のご法話

真の修行者は、煩悩=人間的思考の運動(快⇔不快)の範囲をのり超えている。かれが運動の対象である何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは思考の運動による欲を貪ることなく、また離欲=「思考の運動を離れる事を達成したいと言う欲」を貪ることもない。かれは比較対象を離れこの世ではこれが最上のものであると固執することもない。故に安らぎに帰しているのである。

 

 

この思考の運動を止める修行に熟達すると、常に気づきが生まれ反応は自然と止まる。まずは、自分だと思っている心の動きをよく観察をして止めるのである。自然とそれができるようになれば、真の修行者と言える。それが安らぎの状態である。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句793のご法話

かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことに対する人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、支配している。このように観じ、思考の運動に覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

 

修行者は、常に自らの人間的思考の運動によく気をつけ、動きが出そうな時は制御する。そうして自らをコントロールするのである。我々が自分だと思っているものそれは非常にコントロール難解なのである故に常に気をつけ制御することそれが修行なのである。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句792のご法話

みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想い=人間的思考の運動(守る⇔守らない)に耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めた中道による智慧によって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

 

 

人間と言うのは、誓戒(せいかい)をたもてば「安心」し保てなければ「不安」となるこれは人間的思考の運動(安心⇔不安)である。この運動を止められない限り真理を観る事はできない。故に智慧ある人は自らの人間的思考の運動(安心⇔不安)をも止めて真理を観たのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句791のご法話

前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、人間的思考の運動(前の師⇔後の師)による煩悩の動揺に従っている人々は、人間的思考の運動(前の師⇔後の師)がもたらす執着をのり超えることがない。かれらは、人間的思考の運動によって執着の対象をとらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

お釈迦さまによる中道の教えは、人間的思考の運動を止めて、現象を観察し、真理を観て解脱することにある。故に師などを次々に変えたところで同じなのである。要は自らが、自らの思考の運動を止めて修行に励むことなのである。故にあの師が正しい、この師は間違えているというような想いをも捨てて、聖者は安穏を観たのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句790のご法話

真の修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止める正しい道のほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において禍福の因=「輪廻の因」をつくることがない。

 

この世に存在するもの学問・戒律・道徳・思想どれをとっても人間的思考の運動に基づいて成り立っている。清らかと言うのは、自らの人間的思考の運動を止める事によって、両極端の穢れから離れる事によって清らかとなる。つまり、両極端を掴もうとする行為が穢れであり、それを離れた清らかな眼、つまり中道による眼で世の中を観察した時に初めて真理を観る事が出来るのである。その真理を自らの眼で見た時、その修行者の輪廻の因は無くなる=解脱するのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句789のご法話

もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは人間的思考の運動(快⇔不快)が止められない煩悩にとらわれている人が人間的思考の運動(快⇔不快)を止める正しい道以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見=「人間的思考の運動(快⇔不快)」がある人」と呼ぶ。

 

 

人間的思考の運動を止めた眼で現象を観察しないと真理を観ることはできないのであるから、見解によって真理を観ることはできないのである。故に人間的思考の運動を立ち上げたまま分別をしようとする人は、修行の道を踏み外しているのである。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句788のご法話

「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす見解を最上の境地に達し得る智慧であると誤って理解する。

 

 

人は常に人間的思考の運動(正⇔誤)をしているので、運動による見方で正しいと思った方法を清らかになると誤って理解する。聖者は人間的思考の運動を止めた眼で真理を観、思考の運動を止める事で清らかになると悟る。