スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇903のご法話

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。比較対照する時点で人間的思考の運動(最高⇔下劣)から逸脱していないのである。

 

人は何故教えを最高だとか下劣だとか分別するのであろうか?それは人間的思考の運動(最高⇔下劣)が立ち上がっているからである。その状態では真理を観る事はできない。つまり中道を踏みはずしているからである。故に智慧ある修行者は自らの思考の運動に日々よく気をつけ安穏を観たのである。

 

皆さん新春のお喜びを申し上げます。

今年も日々思考の運動によく気をつけて過ごされるとそこから気づきが生まれそれが智慧となります。目の前には様々な現象が現れます。それは思考の運動のように両極端に現れます。それらを真理とみて、そのようなものだとみて、それらにとらわれずに観察する事によって安穏を観る事が出来るでしょう。

今年も皆様にとって良い年となりますように精進されてください。

 

合掌

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇902のご法話

902 人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず両極端をねがい求める者には欲念がある、また、両極端を掴もうとするはからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、人間的思考の運動(生⇔死)を止めたものーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

 

 

この世において願い求めるものすなわち人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端を掴もうとするものは必ず輪廻転生する。その願いによってまたこの無常の世に生まれてくるのである。この世は無常=移り変わるのであるからその願いはかなえられたとしてもまた時と共に失われて行く。そうして人はこの無限輪廻の世界から抜け出せないのである。それを知って聖者はそれらの想いを捨て去ってこの世の真理を知り遂には彼の岸へと到達したのである。

 

2024年も今日で終わりを迎えます。皆さんいかがお過ごしでしたでしょうか?このスッタニパータの解説をご覧になることによりお釈迦様が何をおっしゃられたのか?はわかられたと思います。あとは、実践あるのみです。日々中道を歩むことによって必ず彼の岸へと到達できます。皆さん2025年良いお年を迎えられるように日々精進なさってください。

合掌

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇901のご法話

901 あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、人間的思考の運動(清浄⇔不浄)と言う分別を止められず妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

 

 

人は、何かを求めて生まれ変わりまた死を迎える。解脱とはその生まれ変わりから解脱することを指す。どうであろうか?この無常の世にまた生まれてきたいと思うであろうか?そうは思わない人も多いであろう一部の特権階級の人々はまた同じような生存を求めるであろうがそれでもまた死を迎えるのである。それは死では解決しない。人は想いによって生まれてくるからである。「今度生まれてくる時には」と思えばやはり生まれてくる。そうならないためにはこの世の実相を知るべきである。つまり真理である。真理は人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がったままではみる事が出来ない。故にお釈迦さまは中道を説かれたのである。苦行を行えば何かを得られるかもしれない。ただそれを求める事それも両極端を求める事なのである。修行者はそれらへの想いを捨てさって中道を維持しその観察をもって実相(真理)を知り、その気づきによって解脱するのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇900のご法話

900 一切の戒律や誓いをも捨て、人間的思考の運動(あり⇔なき)を止める。世間の罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの宗教的行為をも捨て、人間的思考の運動(清浄⇔不浄)である「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。中道を保って修行するのである。

 

 

人間にとって戒律や誓いなども執着の対象になりうるのだ。人によっては誓いや戒律に依存した修行をする者もいる。故に智慧ある修行者はその誓いや戒律をも手放し、依存の対象を作らない。宗教的行為によっても清浄あるいは不浄と言うような人間的思考の運動をする。人はあらゆる対象に対して依存するので、それらを手放し自らの人間的思考の運動によく気をつけて遂には真理へと到達するのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇899のご法話

899 人間的思考の運動(安心⇔不安)を立ち上げもしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ見つけた時は「安心」し見つからないと「不安」となる)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)見つけた時は「安心」し見つからないと「不安」になるようなものである。

 

 

戒律や制戒は先人たちが示した修行をスムーズに行う助けになるものではあるが、人は戒律や制戒に対して人間的思考の運動(安心⇔不安)を立ち上げてしまうと本末転倒と言う事態に陥る。人間的思考の運動を止めないと真理を観る事はできないからである。あるいは、清浄と言う言葉に想いを馳せるとそれもまた人間的思考の運動(清浄⇔不浄)であるから中道を踏みはずすことになるのである。それを知って智慧ある修行者は自らの人間的思考の運動に常によく気をつけ遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇898のご法話

898 人間的思考の運動(戒律を守る⇔守らない)を立ち上げて戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、思考の運動を立ち上げたまま〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

 

戒律というものは、それを守ったから解脱するのではない。先人たちが修行の手助けとなるが故に試行錯誤して作ったものであるがそれに対して人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては本末転倒なのである。それは「安心」と「不安」である修行者が陥りやすい思考の運動としてこの2つの運動がある。戒律を守っては安心し、守らないと不安となるのである。これらは人間的思考の運動(安心⇔不安)なのであるからそこに注意する必要がある。智慧ある修行者は常に自らの心の動きに注視して安穏へと向かったのである 。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇897のご法話

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解=思考の運動による見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ること=「掴むこと」がないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

 

 

世俗的見解というものは人間的思考の運動(快⇔不快)による分別によって分けられる。故に中道とは相反するのである。智慧ある修行者は常に分別を気をつけるのであるからこだわることが無い。こだわりが無いから故に平等に見る事が出来、全体を見て真理に到達するのである。このように師は言われた。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇896のご法話

896 たとい称讃を得たとしてもそれは僅かなもの=「それだけのこと」であって、思考が運動しているので、平安を得ることはできない。論争の結果は称讃と非難との二つの運動だけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争=思考の運動を止めた境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

 

修行において称賛を得たところで何の役にも立たない。むしろ人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がるきっかけになるので、できるだけ近寄らない方が良いのである。そもそも論争自体が称賛と非難と言う両極端の結果しか生まないのであるから智慧ある修行者はその事を知って論争から遠のいたのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇895のご法話

895 自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することができず、これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて一部の同じように人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げている人々から称讃を博するだけである。それでは真理には程遠いのである。

 

想いあるいは自らの見方に固執する事。それらは「こだわり」だと知って聖者は固執することが無い。故に固執する人々は他からの非難を招くのである。おおよそ半分の人は同じように固執するので称賛を得るのだが、ただそれだけの事である。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇894のご法話

894 人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

 

人間は「これだ」と思うとそれを掴み手放そうとしない。そうしてはそれらを掴み喜ぶ。そして反対のものに対しては排除しようとする。それ故に論争に赴くのである。智慧ある修行者は、それらは明らかに人間的思考の運動(快⇔不快)であると知ってそれらへの想いを手放し遂には安穏を観たのである。。