スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句772の解説

772 窟(いわや)(身体)のうちにとどまり、執着し。多くの(煩悩)に覆(おお)われ、迷妄(めいもう)のうちに沈没している人、ーこのような人は、実に(遠ざかり離れること)(厭離)(おんり)から遠く隔(へだ)たっている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。

 

 

窟(いわや)(身体)のうちにとどまり、執着し。多くの(煩悩)に覆(おお)われ、迷妄(めいもう)のうちに沈没している人、ーこのような人は、実に人間的思考の運動(快⇔不快)から遠ざかり離れることすなわち厭離(おんり)から遠く隔(へだ)たっている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。

スッタニパータ 欲望771の解説

771 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。

 

 

それ故に、人は常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて、諸々の欲望を回避せよ。常に見張って、船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しく迫りくる欲望の流れを渡り、彼岸に到達せよ。

スッタニパータ欲望769の解説

769 ひとが、田畑、宅地、黄金、牛馬、奴婢(ぬひ)、僱人(やといにん)、婦女、親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、

 

770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊(やぶ)れた船に水が浸入するように。

 

 

ひとが、田畑、宅地、黄金、牛馬、奴婢(ぬひ)、僱人(やといにん)、婦女、親族、その他いろいろの欲望を貪り求める=無常の世で常住を求め掴もうとするならば、無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち危い災難=無常により手放さないといけない苦悩がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊(やぶ)れた船に水が浸入するように。故に修行者は怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、観察によって無常を知り何ものをも掴まないようにせよ。

スッタニパータ欲望768の解説

768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執着をのり超える。

 

足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執着をのり超える。

 

スッタニパータ欲望767の解説

767 欲望をかなえたいと望み貪欲(とんよく)の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。

 

 

欲望をかなえたいと望み貪欲(とんよく)の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。故に修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、何ものをも掴まないならば、苦しみを回避できるのである。

スッタニパータ欲望766の解説

766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくいくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。

 

 

欲望をかなえたいと望んでいる人=人間的思考の運動(快⇔不快)の快を掴もうとする人が、もしもうまくいくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。この運動によって快を掴むならばこれは振り子の運動であるから必ず正反対の苦しみをも掴むことになるのである。故に修行者は怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、何ものをも掴むことなく苦しみを回避せよ。

お釈迦様が説かれた教えとは?

お釈迦様と言えば、仏教の開祖と言われてますが。そう言うと、宗教を立てたのか?と思われがちですが、仏教と言う宗教はお釈迦様没後の人々によって作られたものです。お釈迦様自身は、信仰を捨てよとスッタニパートの最後におっしゃられています。つまり信仰するが故にこの苦しみの世界へ生まれてくることがないようにせよと言う事です。

では、お釈迦様は何を説かれたのか?それは、苦集滅道です。

苦しみを集めているもとを滅する道

我々が住んでいる世界は苦しみの世界です。

何故に苦しむのか?この世界は無常だからです。

生あるものは死に、時間と共に変化する世界。

故に何かを掴もうとするならば、それは苦しみを掴むことになります。

それを掴むな、手放すならば、苦しみを捨て去るであろうとお釈迦様は説かれました。

そもそも人間は何故この苦しみの世界へ生まれてくるのか?

それは、自らが手放そうとしない想いによって生まれてくるのです。

何故時間は生じるのか?人間的思考の運動(快⇔不快)の波によって生じるのです。

お釈迦様はこの苦しみの世界を脱出する方法を説かれました。

それが、人間的思考の運動(快⇔不快)を止める修行である。中道です。

この中道を保って、この世界を観察するならば、この世界の何たるかを知って

つまり、中道による気づき=智慧によって、遂には自らが知り、

この苦しみの世界から解脱するであろうと言う教えなのです。

八正道(正定)の解説

欲望を制御して、精神統一につとめる。
人間的思考を止め、六根から感じるすべての情報を仏様に集中する。
心が乱れそうになったら戻す、戻すとつねに心がけて集中する心を養う。
もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象に心ひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地にいたる。これを初禅を具足にして住するという。だがやがて彼は、その対象にひかれる心も静まり、内清らかにして心は一向きとなり、もはやなにものにも心ひかれることなく、ただ三昧よりより生じたる喜びと楽しみの境地にいたる。これを第二禅を具足して住するという。さらに彼はその喜びをもまた離れるがゆえに、いまや彼は、内心平等にして執着なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいたる。これをもろもろの聖者たちは、捨あり、念ありて、楽住するという。これを第三禅を具足して住するというのである。さらにまたかれは、楽をも苦をも断ずる。さきには、すでに喜びをも憂いをも滅したのであるから、いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ捨あり、念ありて、清浄なる境地にいたる。これを第四禅を具足して住するというこれを名付けて正定と言う。

 

正定とは何か?何故心がうろつくのか?それは人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が常に反応しているからである。故に心がうろつく。この運動を止めて、集中をする。すなわち中道を保って集中をする事こそ正しい定なのである。この修行が進むにつれ中道を保つことへの理解が深まり、喜びが生じる。その想いをも制し、観察によって、心の状態を見る。すなわち、念、慧=気づき、楽しみである。そののち想いの清らかな境地、時を感じるままに、無常を感じ、この境地を保つのである。これが正定の境地である。

八正道(正念)の解説

一瞬一刻に常に注意を払い、油断せず心を保つ。
人間的思考が立ち上がらないように常に注意を払う(よく気をつける)
わが身において身というものをこまかく観察する。熱心によく気をつけ、心をこめて観察し、それによって世間の貪りと憂いとを調伏して住する。あるいはまた、この存在において存在というものをこまかく観察する。熱心によく気をつけ、心をこめて観察し、それによって世間の貪りと憂いとを調伏して住するこれを名づけて正念と言う。

 

人間と言うものは、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が直ぐに立ち上がるという癖がある。立ち上げては、好き嫌いに分けては、自分の好むものしか思わないものである。故に修行者は、自らの想いに常に注意を払い、よく気をつけ想いを中道に保つのである。この中道による念の中立を保ちつつ観察をする。それによって気づきを得、智慧を確立し、解脱へと向かう。これこそが正念なのである。

 

八正道(正精進)の解説

正しい努力、正精進
善悪に対して正しい判断をして対処する努力
いまだ生ぜざる悪しきことは生ぜらしめんと志を起して、ただひたすらに、つとめ励み、心を振るい起こして努力をする。あるいはすでに生じた悪しきことを断とうとして志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振るい起こして努力する。あるいはいまだ生ぜざる善きことを生ぜしめんがために志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振るい起こして努力する。あるいはまた、すでに生じた善しきことを住せしめ、忘れず、ますます修習して、全きにいたらしめたいと志を立てて、ただひたすらに、つとめ励み、心を振るい起こして努力するこれを名づけて正精進と言う。

 

人間は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)のままに生きるのが常である。修行者は人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制することに努め励むことこれこそが正精進なのである。常に自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を見張り制して、中道を歩む。その時に気づきを得、真理を見るのである。