823 聖者は諸々の欲望を顧(かえり)みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)むのである。」ー
聖者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、諸々の欲望を顧(かえり)みることなく、それ等の運動を離れて修行し、両極端がもたらす激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)むのである。」ー故に聖者は動揺することはない。
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823 聖者は諸々の欲望を顧(かえり)みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)むのである。」ー
聖者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、諸々の欲望を顧(かえり)みることなく、それ等の運動を離れて修行し、両極端がもたらす激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)むのである。」ー故に聖者は動揺することはない。
822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。ーかれは安らぎに近づいているのだが。
俗事=人間的思考の運動(快⇔不快)を求める行為から離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。しかしこれだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。ーかれは安らぎに近づいているのだが。まずは、ここから始めるのである。
821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。淫欲の交わりに耽ってはならない。
聖者はこの世で前後にこの「災い=運動の連鎖」のあることを知り、「独りでいる修行=中道」を堅(かた)くまもれ。両極端による淫欲の交わりに耽ってはならない。
820 独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも淫欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。
独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも「淫欲の交わりに耽った=中道を踏み外した」ならば、両極端による誘惑に陥り愚者のように悩む。
819 そうして他人に詰(なじ)られた時には虚言に陥(おちい)る。すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所である。
そうして他人に詰(なじ)られた時には別の人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がり虚言に陥(おちい)る。すなわち、「自らを傷つける刃(悪行)=運動の連鎖」をつくるのである。これがかれの大きな難所である。
818 かれは諸々の(欲の)想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。
かれは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず、諸々の(欲の)想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、中道を守れてないと他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。
817 かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ。
ひとたび淫欲の交わりに耽ったならば、かつてかれのもっていた「名誉も名声=中道による真理を見る眼」も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、修行者は、淫欲の交わりを断つことを学べ。
816 かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。
かつては自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、独りで暮らしていたのに、のちに両極端を求めて淫欲の交わりに耽る人は、車が中道と言う道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。この道理を見て修行者は、自らの思考の運動を止める事に集中すべきである。
814 ティッサ・メッテイヤさんが言った、ー「きみよ。淫欲の交わりに耽(ふけ)る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」
815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しいことがらである。
師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は人間的思考の運動(快⇔不快)を制すると言う教えを失い、両極端を求めて邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある何か(苦)を掴もうとする卑(いや)しいことがらである。
813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げることもなく、執着して考えることがない。かれは何かを掴んで他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは、両極端の対象を貪らず、また嫌うこともない。このようにあるがままに見るものなのである。