928 修行者は、非難されても、くよくよしてはならない。称讃されても、高ぶってはならない。貪欲(とんよく)と慳(ものおし)みと怒りと悪口とを除き去れ。
修行者は、非難されても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)である心の動揺(不快)を制し、くよくよしてはならない。称讃されても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)である心の動揺(快)を制し、高ぶってはならない。両極端を掴もうとする貪欲(とんよく)と掴んだとしても慳(ものおし)みと掴めない怒りと悪口とを除き去れ。
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928 修行者は、非難されても、くよくよしてはならない。称讃されても、高ぶってはならない。貪欲(とんよく)と慳(ものおし)みと怒りと悪口とを除き去れ。
修行者は、非難されても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)である心の動揺(不快)を制し、くよくよしてはならない。称讃されても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)である心の動揺(快)を制し、高ぶってはならない。両極端を掴もうとする貪欲(とんよく)と掴んだとしても慳(ものおし)みと掴めない怒りと悪口とを除き去れ。
927 わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法(じゅほう)と夢占(ゆめうらない)いと相(そう)の占いと星占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術(かいにんじゅつ)や医術を行ったりしてはならぬ。
わが徒は、両極端を求めるような、アタルヴァ・ヴェーダの呪法(じゅほう)と夢占(ゆめうらない)いと相(そう)の占いと星占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術(かいにんじゅつ)や医術を行ったりしてはならぬ。両極端に惹かれる思考を制して、あるがままに観察を行い真理を視よ。
926 多く眠ってはならぬ。熱心に努め、目ざめているべきである。ものぐさ(面倒くさがること)と偽(いつわり)りと談笑と遊戯と淫欲の交わりと装飾とを捨てよ。
多く眠ってはならぬ。思考の運動を止める事を熱心に努め、観察に目ざめているべきである。修行をものぐさ(面倒くさがること)と両極端を求める偽(いつわり)りと修行と関係のない談笑と遊戯と淫欲の交わりと装飾とを捨てよ。
925 こころを安定させよ。うろついてはならない。後で後悔するようなことをやめよ。怠(なま)けてはならぬ。そうして修行者は閑静(かんせい)な座所・臥所(がしょ)(寝る場所)に住まうべきである。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を怠ることなく制し、こころを安定させよ。うろついてはならない。後で後悔するようなことをやめよ。心を見張る事を怠(なま)けてはならぬ。そうして修行者は閑静(かんせい)な座所・臥所(がしょ)=中道に住まうべきである。
924 食物や飲料や硬(かた)い食べものや衣服を得ても、貯蔵してはならない。またそれらが得られないからとて心配してはならない。
自らの人間的思考の運動(安心⇔不安)を制することに努めよ。食物や飲料や硬(かた)い食べものや衣服を得ても、安心してはならない。またそれらが得られないからとて不安を制し、心配してはならない。
923 苦痛を感じることがあっても、修行者は決して悲観してはならない。生存を貪り求めてはならない。恐ろしいものに出会っても、慄(ふる)えてはならない。
苦痛を感じることがあっても、修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、決して悲観してはならない。生存を貪り求めてはならない。恐ろしいものに出会っても、慄(ふる)えてはならない。運動がもたらす反応を止めよ。
921 〔質問者いわく〕、「眼を開いた人は、みずから体験したことがら、危難の克服、を説いてくださいました。ねがわくは、正しい道を説いてください。戒律規定や、精神安定の法をも説いてください。」
922 〔師いわく〕、「眼で視ることを貪(むさぼ)ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺(たんでき)してはならない。世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。
〔師いわく〕、五感から来るところの人間的思考の運動(快⇔不快)を止める事に心がけ、「眼で視ることを貪(むさぼ)ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺(たんでき)してはならない。世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。
920 海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上らせてはならない。
海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、静止して不動であれ。修行者は何ものについても運動を制し、欲念をもり上らせてはならない。
919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。
修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、心のうちが平安となれ。運動を立上げて、外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。
918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と想ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか想ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想(もうそう)せずにおれ。
立ち上がる人間的思考の運動(快⇔不快)によって快を得、これ(慢心)によって『自分は勝れている』と想ってはならない。得られないとしても『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか想ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想(もうそう)せずにおれ。それらが、真理から遠ざける思考の運動なのであるからである。