868 怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」
怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、人間的思考の運動(快⇔不快)である快と不快との二つの運動があるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。中道を歩む修行者は、知って、諸々のことがらを説いたのである。
suttanipata
info@suttanipata.com
868 怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」
怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、人間的思考の運動(快⇔不快)である快と不快との二つの運動があるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。中道を歩む修行者は、知って、諸々のことがらを説いたのである。
866 「さて世の中で欲望は何にもとづて起るのですか?また(形而上学的(けいじじょうがくてき)な)断定は何から起るのですか?怒りと虚言と疑惑と及び(道の人)(沙門(しゃもん))の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」
867 「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。
「世の中で〈快〉〈不快〉と称するもの=人間的思考の運動(快⇔不快)に依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅=人間的思考の運動(生起⇔消滅)とのあることを見て、世の中の人は外的な事物=分別にとらわれた断定を下す。
864 世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にはびこる貪(むさぼ)りは何にもとづいて起るのですか。また人が来世に関していだく希望とその成就(じょうじゅ)とは、何にもとづいて起るのですか?」
865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。」
「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それらを掴もうとする事にもとづいて起る。」
862 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは、どこから現われ出てきたのですか?これらはどこから起ったのですか?どうか、それを教えてください。」
863 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」
「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは人間的思考の運動(愛⇔憎)によって愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは掴んだものを離さない慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」
861 かれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは〔欲望に促(うなが)されて〕、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれる。」
かれは世間において、なにをのをも掴むことないので〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす〔欲望に促(うなが)されて〕、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に中道を歩む〈平安なる者〉と呼ばれる。」
860 聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。
聖者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、貪りを離れ、何かを掴んだとしても、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは中道を歩み、分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、妄想(もうそう)分別におもむかない。
859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。
世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して貪りなどの過(とが)があるというであろうが、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、観察によって理法を知るかれはその非難を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。
858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。
かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。このように人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、執着の対象を取り払ったのである。
857 諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉=〈中道を歩む者〉である、とわたくしは説く。かれには人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。
856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。
両極端を手放し、煩悩に依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。両極端を手放したかれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。このように解脱していくのである。