まず、自分の感覚的機関すなわち、目、耳、鼻、舌、蝕、意識に集中し、どのような反応の仕方をしているのか?
を観察し、人間的思考の運動(快⇄不快)を止めます。
次に、その人間的思考の運動を止めたら、目の前に現れたものに集中して、観察します。
そうすると、現れるものが変化している事に気づきます。
その常に変化する事を知って、この世が無常である事に気づきます。
この世が無常である事を知ることによって、この世は、苦であることを知ります。
そこから、更に自らの感覚機関からの反応の仕方に集中すると、反応の仕方をも変化する事を知ります。
自らの変化を自覚して、自らが無常である事を知ります。
自らが無常であることに気づき、自らと思い込んでいる存在は、無いことに気づきますそれが、無我です。
それによって、全ての執着から、離れようとする心が生じます。それが厭離です。
その状態の魂を観察すると、本来の魂は、清らかで、汚れのない玉のような光であることがわかります。
更に集中するとその輝きは、増して行きます。そして蓮華座に手が届くようになるのです。
私たちの心は、今まで、どうだったのでしょうか?
両極端の反応すなわち中道では、無い状態の時は、その両極端に執着をし、その執着である煩悩が魂を覆い、鉄の塊のように燃えていたのです。
それが瞋であり、瞋があるという事は、貪りがあるわけです。
無常を知らない状態で、常住を貪る事で、自分を見失うそれが痴です。
私たちは、これまで、この貪瞋痴の無限ループに落とし込まれて、この苦の世界をさまよい、死んでは、また生まれ、生まれたら必ず死ぬのですから、その苦は止みません。
よく、修行をぼちぼち始めますと言う言葉も耳にします。
本当にそれで良いのでしょうか?
私は、以前、自らの周りの人々が苦しんでいることが辛くて、非常に苦しみました。
何故周りの人々は、こんなにも苦しむのか?苦しむ姿は、見たくない。それが苦しい。
一見どんなに幸せそうに見える人でも、話してみると、やはり苦しんでいるではないですか?
でも、それは、当然だったのです。この世界は、苦の世界なのですから。
それに気づいて、この世界から、少しでも多くの人を助けたいと思った。
そのためには、自らが、知ってもらうしかないのです。
この縁を最後の仏縁だと思って、どうか知ってください。
この世界も残り少ないと感じて、今生で、光のように輝くのです。