スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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01月

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇906のご法話

906 かれらは人間的思考の運動(称賛⇔非難)を立ち上げては自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。人間的思考の運動を立ち上げたまま真理を観る事はできないにもかかわらずである。

 

 

自らの見方に愛着を持つとそれは人間的思考の運動(快⇔不快)である。故に自らを称賛する。人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げると真理は遠のくのであるから、懸命な修行者は常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて安穏を観たのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇905のご法話

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、人間的思考の運動(完全⇔下劣)を立ち上げたまま他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

 

 

他人の主張を評価することは修行とは全く関係が無い事である。評価をする時点で人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がるからである。故に懸命な修行者は、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて、遂には彼の岸へと到達したのである。

 

 

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇904のご法話

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見=人間的思考の運動(完全⇔下劣)をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。

 

真理というものは、人間的思考の運動(完全⇔下劣)を止めないとみる事が出来ない。故に思考の運動を立ち上げて論争する事はその時点で思考の運動が立ち上がっており言ってることが本末転倒なのである。故に修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて常に修行に励むべきである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇903のご法話

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。比較対照する時点で人間的思考の運動(最高⇔下劣)から逸脱していないのである。

 

人は何故教えを最高だとか下劣だとか分別するのであろうか?それは人間的思考の運動(最高⇔下劣)が立ち上がっているからである。その状態では真理を観る事はできない。つまり中道を踏みはずしているからである。故に智慧ある修行者は自らの思考の運動に日々よく気をつけ安穏を観たのである。

 

皆さん新春のお喜びを申し上げます。

今年も日々思考の運動によく気をつけて過ごされるとそこから気づきが生まれそれが智慧となります。目の前には様々な現象が現れます。それは思考の運動のように両極端に現れます。それらを真理とみて、そのようなものだとみて、それらにとらわれずに観察する事によって安穏を観る事が出来るでしょう。

今年も皆様にとって良い年となりますように精進されてください。

 

合掌