902 ねがい求める者には欲念がある、また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。
人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず両極端をねがい求める者には欲念がある、また、両極端を掴もうとするはからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、人間的思考の運動(生⇔死)を止めたものーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。
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902 ねがい求める者には欲念がある、また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。
人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず両極端をねがい求める者には欲念がある、また、両極端を掴もうとするはからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、人間的思考の運動(生⇔死)を止めたものーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。
901 あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。
あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、人間的思考の運動(清浄⇔不浄)と言う分別を止められず妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。
900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。
一切の戒律や誓いをも捨て、人間的思考の運動(あり⇔なき)を止める。世間の罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの宗教的行為をも捨て、人間的思考の運動(清浄⇔不浄)である「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。中道を保って修行するのである。
899 もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。
人間的思考の運動(安心⇔不安)を立ち上げもしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ見つけた時は「安心」し見つからないと「不安」となる)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)見つけた時は「安心」し見つからないと「不安」になるようなものである。
898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。
人間的思考の運動(戒律を守る⇔守らない)を立ち上げて戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、思考の運動を立ち上げたまま〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。
897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?
すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解=思考の運動による見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ること=「掴むこと」がないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?
896 (たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。
たとい称讃を得たとしてもそれは僅かなもの=「それだけのこと」であって、思考が運動しているので、平安を得ることはできない。論争の結果は称讃と非難との二つの運動だけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争=思考の運動を止めた境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。
895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだけである。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することができず、これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて一部の同じように人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げている人々から称讃を博するだけである。それでは真理には程遠いのである。
894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。
人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。
893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう。
人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。思考の運動によって、他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう。