912 聖者はこの世で諸々の束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。
聖者はこの世で人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす諸々の束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは両極端に惹かれる不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。
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912 聖者はこの世で諸々の束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。
聖者はこの世で人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす諸々の束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは両極端に惹かれる不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。
911 バラモンは正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。
修行者は真理に至る道=「人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて観察すること」を正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。
910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。
(「われは知る」「われは見る」ということに)捉われ執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、人間的思考の運動(清浄⇔不浄)を立ち上げたまま、そのように(一方的に)見たのである。
909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。
人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを常住または安楽であると認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらをそのように見たらよいだろう。真理に達した人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままそれを見ることによって清浄になるとは説かないからである。
908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。
「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、自らの人間的思考の運動(称賛⇔非難)を止めて真理を見るという正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。
907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。
真の修行者は、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。自らの人間的思考の運動(称賛⇔非難)を止め、自らが真理を観るからである。
906 かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。
かれらは人間的思考の運動(称賛⇔非難)を立ち上げては自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。人間的思考の運動を立ち上げたまま真理を観る事はできないにもかかわらずである。
905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。
もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、人間的思考の運動(完全⇔下劣)を立ち上げたまま他人の教えを劣ったものだと説いているからである。
904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。
かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見=人間的思考の運動(完全⇔下劣)をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。
903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。
或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。比較対照する時点で人間的思考の運動(最高⇔下劣)毛脱していないのである。