スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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12月

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇892のご法話

892 人間的思考の運動(清浄⇔不浄)を立ち上げ、ここ〈わが説〉にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに自分の見方に執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもって論ずる。

 

我が説のみに清浄があると説く者それはこだわりである。こだわりとは、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げている状態で、両極端を掴んでいる状態で起こる。故に中道を踏みはずしているので真理を見る事はできない。それを見て智慧ある修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく注視し、こだわりを捨て遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇891のご法話

891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、〈不完全な人〉である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を止められずに自己の偏見に耽溺(たんでき)して汚(けが)れに染まっているからである。

 

自らの考えに「こだわる」もの。そのこだわりこそ人間的思考の運動の両極端なのである。それを掴んでは喜び、反するものは排除しようとする。これこそが人間的思考の運動なのである。智慧ある修行者はそのことによく気をつけ中道を歩み遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇890のご法話

890 もしも、自らの人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を制することができずに他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その呼ぶ人自身は相手とともに修行失格者となる。また、もしも自らの人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を制し自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の修行者のうち愚者は一人も存在しないことになる。

 

修行によって真理を見る者は他の者と比較する必要は無い。それはすでに自らの眼によって達成されているからである。故に修行完成者は他の者と争うことが無い。完成者はおのおのを称えあい安穏の地に住するのである。