スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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11月

スッタニパータ 争闘870のご法話

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか?また何がないときにこれらのものが現われないのですか?また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。それらを求めて立ち上がる生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの感官による接触を、われは汝に告げる。」

 

感官とは何か?それは目、耳、鼻、舌、身体、心である。それらが接触することで快と不快が生じる。故に快を求め不快を排除しようとするとその想いにより生起が発生する。この世は無常であるから生起したものは消滅するのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句788のご法話

788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

 

もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままの煩悩にとらわれている人が人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道によって観る正しい道以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

 

人の苦しみとは何か?この無常の世で常住を望むが故に人は苦しむ。この世で常住のものなどないからである。では、なぜ人はそれがわからぬのか?それは、人が無明だからである。無明であるから見解によって清らかになると思い込む。それでは、無明を撃破するにはどうしたらよいのか?それは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止める事である。止める事で無常を知り、真理を知る。それは無明からの脱出であり解脱への道である。

スッタニパータ 争闘868のご法話

怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、人間的思考の運動(快⇔不快)である快と不快との二つがあるときに現われる。疑惑ある人は中道の眼に学べ。修行の達人は、真理を知って、諸々のことがらを説いたのである。」

 

怒りはどのような時に現れるのか?人間的思考の運動(快⇔不快)によって快が得られない時あるいは不快を掴んだ時に起こる。虚言はどうか?やはり人間的思考の運動(快⇔不快)による快を掴みたいが故に虚言を言いあるいは不快を掴みたくないが故に虚言を言う。疑惑とは人間的思考の運動(快⇔不快)によって自分の意見と相反するとき不快を感じる時に疑惑が起こるのである。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道を歩むものにこれらの事柄は起こらない。そのように師は言われた。