スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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10月

スッタニパータ 争闘867のご法話

866 「さて世の中で欲望は何にもとづて起るのですか?また(形而上学的(けいじじょうがくてき)な)断定は何から起るのですか?怒りと虚言と疑惑と及び(道の人)(沙門(しゃもん))の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

 

「世の中で人間的思考の運動(快⇔不快)である〈快〉〈不快〉と称するものに依って、両極端を掴もうとする欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は外的な事物(目の前に現れたものを掴みたいと言う欲望)にとらわれた断定を下す。

 

人間というものは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げるが故に両極端を掴みたいという欲望が立ち上がる。人が何故断定するような意見を言うのかと言うと「ある」「ない」と言う2つの事柄しか見ていないからである。故に「快」を掴めないならば怒り「不快」を掴んだならば怒る。そして「快」を掴むために虚言を言う。また、自らの考え=人間的思考の運動(正⇔誤)が立ち上がると自らが掴んだ正と違う意見には疑惑が生じるのである。そして先人の修行者は自らが正しいと思い込んだ道を説いてゆくのである。

スッタニパータ 争闘865のご法話

864 世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にはびこる貪(むさぼ)りは何にもとづいて起るのですか。また人が来世に関していだく希望とその成就(じょうじゅ)とは、何にもとづいて起るのですか?」

 

「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端を掴もうとする欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。」故に人間は輪廻するのである。

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲望、その想いによって人は輪廻する。この世は無常であるから何かを掴んでも必ずそれは手放さないといけなくなるのである。それは愛する人であっても親しい友人であってもである。人はこの無常を知らずして追い求め輪廻する。この世は常に運動をしているので両極端に安住することはない。それが故に人は追い求めるのであるが、その想いは永遠に続く。手放さないことは出来ないからである。それを知って修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し遂には彼の岸へと到達したのである。

 

スッタニパータ 争闘862のご法話

862 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは、どこから現われ出てきたのですか?これらはどこから起ったのですか?どうか、それを教えてください。」

 

「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは人間的思考の運動(愛⇔憎)によって愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは掴んだものを離さない慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

争闘と論争とは自らが信じたものをそれぞれが掴んで離さないために起こるのである。それらを手放せば争闘と論争は起こらない。自らと違う考えがいるものを見ては悲しむ。あるいは論破されれば自分の考えが正しいのだろうか?と心配になる。また、違う意見に対しては否定的であるため悪口が飛び出す。これらを見ても争闘は修行とは全く関係のないものでありこころがうろつく原因にもなる。これを見て智慧ある修行者は争闘から遠ざかり安穏を観たのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に861のご法話

人間的思考の運動(快⇔不快)を制して両極端を手放したかれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは〔欲望に促(うなが)されて〕、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に中道を歩む平安なる者と呼ばれる。」

 

 

聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端に縛られることなく両極端のしがらみから解放されている。かれには所有するものはない故にそのしがらみからも解放されるのである。欲望のある人間はその欲望が赴くままに人生を歩むが聖者は欲望から解放されあるがままに真理を観るのである故にかれには平安が安住する。

スッタニパータ 死ぬよりも前に860のご法話

聖者は人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす貪りを離れ、両極端に対して慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。人間的思考の運動(快⇔不快)を制したかれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。

 

 

お釈迦様の説かれた中道の修行において他と比較することは無意味である。何故か?他より優れているから解脱するのではない他より劣っているから解脱できないこともない。等しくても解脱できるとは限らないからである。人間の世界では競い合って切磋琢磨するのであるが、仏の世界では自己鍛錬あるのみ故に修行者はそれをわきまえて、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、自らが見た真理に導かれて、彼岸へと到達せよ。

スッタニパータ 死ぬよりも前に859のご法話

世俗の人々、または道の人・修行者どもがかれを非難して貪りなどの過(とが)があるというであろうが、かれは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、自らの修行状況がわかるが故にその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

 

修行者が人からの非難などを気にかけるのは自分が良く思われたいという人間的思考の運動(良⇔悪)が立ち上がるからである。中道を目指す修行者はそのような想いにもよく気をつけ中道を常に心がけ世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 死ぬよりも前に858のご法話

かれには、人間的思考の運動(快⇔不快)が生み出す執着の対象である子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。人間的思考の運動(快⇔不快)を制したかれにはすでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

 

 

聖者というものは現象をあるがままに観る。あるがままという事は、わけないという事である。それは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道の眼で観る。それがあるがままという事なのだ。故に分けた上で人間が選ぶような物質的なものすなわち執着の対象である子も、家畜も、田畑も、地所から解放され遂には解脱へと至るのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に857のご法話

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人=中道を保つ人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、執着を渡り了(お)えた。

 

 

人間というものは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、快を追い求めるそれらをどうやったら掴めるのかを顧慮(こりょ)するのである。故にそれらを掴もうと縛(いまし)めの結び目が出来るのである。それをみて智慧ある修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に856のご法話

両極端に対して依りかかることのない人は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道による観察によって理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。修行者はこのような状態を目指すのである。

 

 

依りかかるという事は依存するという事である。人間は、人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がると、快を掴めば安心し、不快を掴めば不安となり両極端を求めて心がうろつく。このような運動を繰り返しているのである。修行者はそれらの運動によく気をつけ、運動を止めて、運動を追いかけるのではなく、あるがままに観察をする。故に真理が見えるのである。このようにお釈迦さまは言われた。

スッタニパータ 死ぬよりも前に855のご法話

平静であって、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に常によく気をつけていて、世間において他人と自分と等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。修行者はこのような状態を常に保つべきである。

 

人は、人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がると他人と自分を比較したりするものである。その状態では物事の本質をみる事は出来ない。聖者はその変化を見、かれこれがこのような状態とある時このように存在するということを明らかに知るそれが真理への道であり、平静に観るということである。故に智慧ある修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、遂には彼の岸へと到達するのである。