スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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08月

スッタニパータ 最上についての八つの詩句799のご法話

修行において智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端である偏見をかまえてはならない。自分を他人との反応の仕方によく気をつけ「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。このように修行者は中道を保つものである。

 

修行者の中にも修行方法などを人間的思考の運動によって優劣をつけたり気づいた智慧についてもこれは素晴らしいとかあるいは戒律を守ると安心するだとかどこにでも人間的思考の運動は立ち上がるのである。修行者はそのたび気づきそれらを止め中道を歩むことによって真理へと近づくのである。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句798のご法話

人が人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と真理に達した人々は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳に対して自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、こだわってはならない。

 

 

人は人間的思考の運動を立ち上げ物事を快不快に分け、それらを掴んでは依存する。たとえそれらを掴んだとしても運動をするのでその掴んだものあるいは依存したものはいずれ失われるのである。故に修行者はそれらを掴むことなくあるいは依存することなくあるがままにとらえ、遂には真理を観たのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句797のご法話

かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げては、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。故に思考の運動を止められないかれは、真理には程遠いのである。

 

これらは、全て比較対象なのである。他と比較したところで、その方法でよいとは限らない。お釈迦様の教えは中道を守り真理を観る事であって、対立することではない。この優れているか、劣っているという事は、修行とは全く関係のないことなのである。故に修行者は、自らの人間的思考の運動によく気をつけ、中道の眼によっての気づきを積み重ね、自らが真理を観る事に努めよ。