スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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08月

スッタニパータ 老い809のご法話

わがものとして執着したものを貪り求める人々は、消滅する対象に対しての憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。故にまた生起と言う輪廻を繰り返す。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)=「輪廻からの解脱」を見たのである。

 

人はひとたび何かを追い求めたならば、再びそれらを掴むために輪廻へと赴く。智慧ある聖者はそれらを知って、無所有を貫きあらゆるものを捨て去って遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 老い808のご法話

「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。この世界を中道の眼で見るとき、それは、生起と消滅と言う現象に過ぎないのである。すなわち何の誰それが生起し、何の誰それが消滅した。単にそういう事なのである。

 

この無常の世では、どのような者であっても最後には消滅する。故にどのよう想いであれ、どのような過程であれ、そこにあるのは生起と消滅なのである。故にこだわってはならない。こだわりはすなわち生起の元なのである。智慧ある修行者はそのことを知って、こだわりを捨てさって遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 老い807のご法話

夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。故に再び追い求めて輪廻の渦に巻き込まれてはならない。

 

人はこの世で愛する人と会ったならば、永遠に一緒に射たいと望み、離れたくないと想う。しかしながら、この世は無常であるので、ひとたび出会った相手は必ず生別、死別を免れない。その道理を知ったならば、修行者は、あるがままにそれを知って、求めることなく、追いかける事もなく、世の中を遍歴し遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 老い806のご法話

人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれはその人の死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)=生起と消滅とを知って、全てを手放し、わがものという観念に屈してははらない。

 

この世で永遠に手もとへおいておけるものなど何も存在しない。それは、愛する人であっても、我が子でもある。修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めた中道による眼で生起と消滅とをよく観察し、真理を観、遂には解脱するのである。

スッタニパータ 老い805のご法話

人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。この無常の世では、自己の所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家=「人間的思考の運動(快⇔不快)の領域」にとどまってはならない。

 

無常と言うのは書いて字のごとく常で無いという事である。人は「両極端=人間的思考の運動(快⇔不快)の快」を掴めたとしてもそれは運動をするので必ず失われてゆくつまり反対のものへと変化するのである。例えば人が美味しいものをたくさん食べたとしようそれは食べれば食べるほどおなかがいっぱいになりそのうち苦しくなる。それと同様に生⇔死の生を掴んだとしようそれはそのうち死へと変化してゆく。そう、この世で死なないものなどいないのである。故に修行者は、それらの運動による両極端を手放し、人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて運動を止め遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 老い804のご法話

ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。この世は無常である。生まれてきた生命は、必ず死を迎える。このことを知った修行者は、この無常の世に愛着を持ってはならない。

 

 

人は、この世で「ああしたい」「こうしたい」と言う想いがある。そして道半ばで寿命が尽きた時、また生まれたいと言う強い思いが生まれその想いによってまた生まれてくる。この世に生まれた者には必ず死が付きまとう故にこの世に愛着を持ってはならないのである。人の寿命は短いものである故に修行者は寿命が尽きる前にそれらの想いを断ち切ってその想いから解脱し遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句803のご法話

かれらは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、妄想分別をなすことなく、いずれか一つの偏見を特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。真の修行者は戒律や道徳によって導かれることもない。自ら中道の眼によって真理を見る。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

 

人間と言うものは常に人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がっており自らが快と思う「偏見=考え方」を掴み満足をする。そのように戒律や道徳を追い求め熱中する。ただ、そのような状態ではどちらか「一方=自分が正しいと思った考え方」しか見る事が出来ず全体を観察できないので真理に到達することはできない。故に修行者は、自らが守った戒律や道徳に満足することなくそれらに対する人間的思考の運動(快⇔不快)をも止めて中道を保ち遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句802のご法話

かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)=「何かを掴み取ろうとする想い」をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないその修行者を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

 

人は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、快を掴もうと妄想し、それらを追い求めて生きてゆく。そしてこの無常の世で掴んだものを失ってまた追い求めるのである。この世は「無常=常で無い」すなわち変化してゆく世界であるから、かれらが望んだ状態は変化によって失われてゆく。故に人は嘆き悲しむのである。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動によく気をつけ、両極端を掴むことなく世の中を遍歴し遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句801のご法話

かれはここで、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)=「これだと言って掴むような想い」は、かれには何も存在しない。このように安穏を観たのである。

 

人間と言うものは常に分別し、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、快を掴もうとする。もしもそれが掴めないならば、生まれ変わってでも掴もうとするのである。それが輪廻を発生させているのである。故に修行者は、それらの想いを断ち切り、自らの思考の運動によく気をつけ、遂には輪廻から解脱したのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句800のご法話

かれは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は種々異なった見解を掴んで分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せず、いかなる見解もをそのまま信ずることはない。このように常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて遍歴せよ。

 

 

人というものは、常に分別し、その分別の結果によって行動するものである。そこには常に偏見=分別による偏った見方がある。それ故に真理を観る事はできないのである。それは、分別によって捨て去ったものを見ようとしないからである。故に修行者は、偏ることなく、常に自らの人間的思考の運動によく気をつけ、遂には真理を観たのである。