スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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08月

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ820のご法話

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも中道を踏み外し、人間的思考の運動(快⇔不快)を抑えられずに、淫欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。

 

 

なぜ人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端を追い求めると愚者のように悩むのか?それは、人間的思考の運動(快⇔不快)を追い求めて快を得たとしてもそれは運動をするので不快がついてまわるからである。それは、快⇔不快と言う振り子の運動をするように交互に現れる。賢者はそれを知って運動には近づかない。故に安穏を観たのである。

 

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ819のご法話

そうして他人に詰(なじ)られた時にはそれをごまかそうと虚言に陥(おちい)る。すなわち[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。かれには他人からよく見られていたいと言う想いも潜んでいるのである。その想いは修行とは全く関係がない想いであり、これがかれの大きな難所である。

 

 

なじられた時になぜごまかそうとするのか?それは他人からよく思われたいと言う想いからである。それは人間的思考の運動(快⇔不快)の運動である。その想いによって更に修行と逆行するのである。なぜならば修行はその想いを制することだからである。故に修行者は怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、よく気をつけて世の中を遍歴せよ。

 

 

 

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ818のご法話

かれは諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲の想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。故に修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道を保ち安穏を観たのである。

 

 

 

両極端へのこだわりは人間の欲である。人間的思考の運動(快⇔不快)の運動には必ず快には不快が付いて回る。それは運動するので快は次第に不快へと変化する。その道理を知らなければ、困窮すること必然である。故に修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)への想いにとらわれることなく、それらの想いを制して遂には安穏を観たのである。

 

 

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ817のご法話

修行者が、中道から道を踏み外し、「人間的思考の運動(快⇔不快)=両極端」を求めるのならば、かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ。

 

 

修行者は、中道すなわち人間的思考の運動(快⇔不快)」を制した眼で観察を行うのが修行である。故にそれらを怠って人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端を求めるのであれば、どこが聖者と呼べようか?それを知って修行者は怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ816のご法話

かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、中道を踏み外し両極端へと車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

 

 

人は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて両極端を追い求める時、中道を保てないのであるから、真理を観る事はできない故にその状態は凡夫なのである。故に修行者は、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、それらを制し、遂には安穏を観たのである。

 

スッタニパータ  ティッサ・メッテイヤ814のご法話

師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は人間的思考の運動(快⇔不快)を制すると言う教えを失い、両極端を求めて、邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しい=「運動に引き込む」ことがらである。

 

 

中道を目指す修行者は人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端を追い求めてはならない。それらを制するのが修行なのである。この無常の世で掴むことのできないもの(両極端)を追い求める事。それすなわち苦である。そのことを知って聖者は、自らの人間的思考の運動を制して遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 老い813のご法話

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端による邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは中道以外の他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは両極端に対して貪らず、また嫌うこともない。

 

人と聖者の違いは何であろうか?人は両極端を常に追い求めている。すなわち人間的思考の運動(快⇔不快)の快を求めあるいは不快を退ける。聖者は人間的思考の運動(快⇔不快)に常によく気をつけそれらを制し、中道を歩むものである。

 

スッタニパータ 老い812のご法話

たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道を保つことによって両極端に汚されることがない。

 

 

蓮華の上すなわちどんな水をも弾く心構えそれは常に気をつける事によって保たれる。両極端に対しての誘惑はその呼び水のように修行者を誘惑する。智慧ある修行者は、それらを常に気をつける事によって回避する。すなわち蓮の葉のようにである。もはや両極端は弾かれて聖者を侵すことはない。

スッタニパータ 老い811のご法話

聖者はなにものにもとどこおることなく、人間的思考の運動(愛⇔憎)を制し、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。そのように運動による両極端を制し中道を保つ。

 

 

人は物事を「好き⇔嫌い」に分け好きなものを愛する。しかし、それは運動をするので愛はやがて憎しみへと変化する。もしも人の愛するものが思い通りにならないならばその愛は憎しみへと変化するのである。そしてそれらを掴んでは放そうとせず物惜しみをする。これらが「愛⇔憎」の運動である。智慧ある修行者はそのことを知ってその運動に近づかないならば、修行者の心は蓮の葉のごとくそれらの汚水を弾いて運動に汚されることはないのである。

スッタニパータ 老い810のご法話

世間の営みから遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。「無常である何かを追い求めると言う」迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

 

 

世の人々は常に何かを追い求め忙しい。無常であるこの世に存在する対象は、常で無いのであるから必ず失われてゆく。故にそれらを追い求めるかれらは、失われては追い求め、また失うのである。故に智慧ある修行者は、それらの行為から遠ざかりそれらの行為を捨て去って安穏を観たのである。