自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも中道を踏み外し、人間的思考の運動(快⇔不快)を抑えられずに、淫欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。
なぜ人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端を追い求めると愚者のように悩むのか?それは、人間的思考の運動(快⇔不快)を追い求めて快を得たとしてもそれは運動をするので不快がついてまわるからである。それは、快⇔不快と言う振り子の運動をするように交互に現れる。賢者はそれを知って運動には近づかない。故に安穏を観たのである。