スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2023年

スッタニパータ 最上についての八つの詩句800の解説

800 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せずいかなる見解もをそのまま信ずることはない。

 

 

かれは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、すでに得た見解〔先入見〕を捨て去って分別せず、執着することもなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は種々異なった見解に分別をしては分かれているが、かれは実に党派に盲従分別なく人の言うがままに従うことをせず、いかなる見解もをそのまま信ずることはない。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句799の解説

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

 

 

智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、偏見をかまえてはならない。自分を他人とを分別せず「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句798の解説

798 人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と(真理に達した人々)は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

 

 

人が人間的思考の運動(快⇔不快)を立上げて、何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と分別して見なすならば、それは実にこだわりである、と真理に達した人々は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳に対しても、中道を守り、こだわってはならない。

 

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句797の解説

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

 

 

 

かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、分別して自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。故に思考の運動が止められないかれらは真理を見る事はできないのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句796の解説

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

 

 

世間では、人は諸々の見解のうちで分別をして勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす運動による諸々の論争を超えることがない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句795の解説

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

 

 

真の修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)による煩悩の範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、思考の運動を止め、執着することがない。かれは両極端がもたらす欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれはこの世ではこれが最上のものであると分別したものを捕まえて固執することもない。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句794の解説

974 またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

 

 

またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する他に上がる人間的思考の運動(快⇔不快)による貪欲を抑制せよ。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句793の解説

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

 

 

かれは一切の事物について、人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、四智思考による観察によって、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句792の解説

792 みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

 

 

みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、立ち上がる人間的思考の運動(快⇔不快)による想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めた理法による観察によって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句791の解説

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

 

 

前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、分別がもたらす煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。