スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

2023年

スッタニパータ 老い810の解説

810 遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲望から遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。失うものを追いかける迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

スッタニパータ 老い809の解説

809 わがものとして執着したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。

 

 

わがものとして執着したものを貪り求める人々は、それらを掴んで離さないといけない時を迎えるが故に憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。

スッタニパータ 老い808の解説

808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

 

「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

故にこの世ではただただ、途中の過程はどうであれ、生起と消滅とを繰り返すのみである。それを知って修行者はこの世に留まってはならない。

 

 

スッタニパータ 老い807の解説

807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。

 

 

夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。故に再び追い求めて輪廻の渦に巻き込まれてはならない。

スッタニパータ 老い806の解説

806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

 

 

人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれはその人の死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)=生起と消滅とを知って、全てを手放し、わがものという観念に屈してははらない。

スッタニパータ 老い805の解説

805 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。

 

 

人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。自己の所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅=生起と消滅するものである、と見て、在家=この世の輪廻にとどまってはならない。

スッタニパータ 老い804の解説

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。

 

 

 

ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。想いによって生を得たとしても、その生によってまた死ぬのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句803の解説

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

 

かれらは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、妄想分別をなすことなく、いずれか一つの偏見を特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。修行者は戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、中道による観察によって真理を見、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句802の解説

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

 

かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、いかなる偏見をも執することのないその中道を守る修行者を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

スッタニパータ 最上についての八つの詩句801の解説

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。

 

 

かれはここで、両極端に対する想いを制し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。かれは想いによる輪廻を解脱し安穏を観たのである。