851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。
自らの人間的思考の運動(良⇔悪)を制し、未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。現在に置いても思考の運動を制し、感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の両極端がもたらす偏見に誘われることがない。
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851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。
自らの人間的思考の運動(良⇔悪)を制し、未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。現在に置いても思考の運動を制し、感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の両極端がもたらす偏見に誘われることがない。
850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。
かの聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。両極端を掴もうとしないならば、思考の運動がもたらす落とし穴に引き込まれるようなことは起きないのである。
848 「どのように見、どのように戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたしに説いてください。」
849 師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。
師は答えた、「死ぬよりも前に、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは未来に関しても特に思いわずらうことがない。
847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端の想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。思考の運動を止めた観察による智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。両極端の想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、この無常な世の中をうろつく。」
846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。
修行の達人は、見解についても、思想についても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、慢心に至ることがない。かれの本性はそのような両極端によるものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす執着の巣窟に導きいれられることがない。
845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。
竜(修行完成者)は人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、人間的思考の運動(快⇔不快)に固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は中道を保ち平安を説く者であって、両極端を貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。
844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。
自らがこだわるような家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の両極端による欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。それらの想いを制することによってのみ中道を保ち悟りへと到達するからである。
843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて中道を歩む修行者はどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。かれには追い求めるべき両極端の想いは存在しないのである。故に真理へと到達するのである。
842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立上げ、『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその両極端の思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いうそれらを掴みに行くような思いは存在しない。
840 マーガンディアが言った、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」
841 師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。
師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは自分の人間的思考の運動(快⇔不快)による分別した教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、両極端に執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの中道がもたらす内心の平安について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。