861 かれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは〔欲望に促(うなが)されて〕、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれる。」
かれは世間において分別をすることがないので、〈わがもの〉という所有がない。また何かを掴もうともしないので、無所有を嘆くこともない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲望に促(うなが)されて、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に中道を保つ〈平安なる者〉と呼ばれる。」
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861 かれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは〔欲望に促(うなが)されて〕、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれる。」
かれは世間において分別をすることがないので、〈わがもの〉という所有がない。また何かを掴もうともしないので、無所有を嘆くこともない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲望に促(うなが)されて、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に中道を保つ〈平安なる者〉と呼ばれる。」
860 聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。
聖者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端がもたらす貪りを離れ、なにものかを掴んだとしても慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれはそのように分けるような分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。常に中道を保って世の中を遍歴する者なのである。
859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。
世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。かれは自ら理法を知るものであるが故に、かれは論議されても、動揺することがない。
858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。
かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。それらに対する人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制し、想いを制した者なのである。
857 諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。
諸々の欲望に対する人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、その事に対して、顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉=「中道を歩む者」である、とわたくしは説く。かれには運動による縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。
856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。
自ら見る事を知って、依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、やり直したいと言うような、生存のための妄執も、修行に種着をするような、生存の断滅のための妄執も存在しない。かれは、中道を歩みあるがままに知るのみである。
855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。
平静(中道を保ち)であって、常によく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に気をつけていて、世間において他人と自分とを比較するような運動をも制し、等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには運動による煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。
854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。
人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道を保つ修行(日常)の心構えを語ろう。思考の運動を止めて修行を行い、利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。このように心が運動しないようにせよ。
853 快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、分別を制して、(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また何かを得たとしても高慢にならず、中道を保ち柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。このように聖者は現象に動揺することもなく、あるがままに理法を観る。
852 (遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。
人間的思考の運動(快⇔不快)による両極端を掴もうとする遁欲(とんよく)などから遠ざかり、何かを得ようと偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、何かを得ても慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。このように人間的思考の運動(快⇔不快)から離れたところに座すものである。