スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2022年

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇890の解説

890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の〈道の人〉のうち愚者は一人も存在しないことになる。

 

 

もしも、他人が人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま、自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに人間的思考の運動(快⇔不快)を止められない愚劣な者となる。また、もしも自分で人間的思考の運動(快⇔不快)を制して観察によって修行の達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の〈道の人〉のうち愚者は一人も存在しないことになる。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇889の解説

889 かれは誤(あやま)った妄見を以てみたされ、驕慢(きょうまん)によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。

 

 

かれは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま両極端による誤(あやま)った妄見を以てみたされ、何かを掴んでは、驕慢(きょうまん)によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、両極端を掴んだかれによればそのように完全なものだからである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇888の解説

888 反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれはみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

 

自らの人間的思考の運動(正⇔誤)を立上げ、反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を真理に達した人であるという。かれはみずから自分を真理に達した人であると称しながら、人間的思考の運動(正⇔誤)を立ち上げたまま他人を蔑視し、そのように語る。人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままでは真理を見る事はできないのにである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇887の解説

887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視(べっし)し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

 

偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま他の説を蔑視(べっし)し、自己の学説の断定的結論に立って掴んでは喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。これらの人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制してはいないので、真理を見る事はできない。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇885、886の解説

885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?

 

みずから真理に達した人であると自称して人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を他人から聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?いずれにしても、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままでは、真理を見る事はできないのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇884の解説

884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。

 

それそれの修行者が思考を制してあるきっかけをもとに観る真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なったきっかけから観た真理をほめたたえている。それ故に諸々の修行者は同一の事を語らないのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇883の解説

883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の(道の人)は同一の事を語らないのであろうか?

 

或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、異なった執見(執着した見方)をいだいて論争する。何故に諸々の修行者は同一の事を語らないのであろうか?

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇881の解説

881 またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。

 

またもしもかれらが人間的思考の運動(快⇔不快)を制した上で自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解はその点で等しく完全であるからである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇880の解説

880 もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

 

もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて各自の人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。智慧あるものは、人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、真理を見るものであるのだから。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇879の解説

879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?

 

かれらはこのように異なった執見をいだいて人間的思考の運動を立ち上げたまま論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?人間的思考の運動を立ち上げたままでは、全体を見る事ができないが故に真理を見る事はできないのである。