スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2022年

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句786の解説

786 邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。

 

 

邪悪を掃(はら)い除いた人=「人間的思考の運動(快⇔不快)を制した人」は、運動を止めてあるがままに見るので、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして輪廻に赴(おもむ)くであろうか?かれはもはや両極端に対してたより近づくものがないのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句785の解説

785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。

 

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を見極め、諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの「偏執=偏った考え方に執着している」の住居(すまい)のうちにあって、不快に直面すれば、ものごとを斥(しりぞ)け、また、快に直面すれば、これを執(と)る。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句784の解説

784 汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、両極端に汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、運動によって「ゆらぐ=変化する」ものにたよる平安に執着しているのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句783の解説

783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは〈高貴な人〉である、と真理に達した人々は語る。

 

 

修行僧が自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して中道を保ち平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても中道を歩み、煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは〈高貴な人=中道を保てる人〉である、と真理に達した人々は語る。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句782の解説

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である、と真理に達した人は語る。

 

 

人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「人間的思考の運動(快⇔不快)を止められない」である、と真理に達した人は語る。何か(心地よい言葉=褒められ言葉)を求める事すなわち人間的思考の運動(快⇔不快)である。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句781の解説

781 欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)である欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏った見方である偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。しかし、中道を保たない限り全体を見ないのであるから真理を見る事はできないのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句780の解説

780 実に悪意をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いた事を真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない

 

 

実に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、悪意をもって他人を誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いた事を真実だと思って運動による反応で他人を誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれ=人間的思考の運動(快⇔不快)に近づかない。だから聖者は何ごとについても中道を保ち心の荒(すさ)むことがない

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句779の解説

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執着に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に対する反応の仕方である想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、運動による反応で所有したいという執着に汚されることなく、思考の運動にほだされる煩悩の矢を抜き去って、運動を止める事につとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。この運動を止めない限り、この世とあの世を行き来する運動から離脱はできないのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句778の解説

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるように悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

 

 

賢者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、両極端に対する欲望を制し、観察によって感官と対象との接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるように運動にほだされるような悪い行いをしないで、中道を保ち見聞することがらに汚されない。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句777の解説

777 (何ものかを)わがものであると執着して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。ー諸々の生存に対して執着することなしに。

 

 

(何ものかを)わがものであると執着して失われる変化の中で動揺している人々を見よ。かれらのありさまは失われると知らずにひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、無常を感じ「わがもの」という思いを離れて修行を行うべきである。ー諸々の生存に対して執着することなしに手放して。