796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。
世間では、人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては分別し「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは思考の運動がもたらす諸々の論争を超えることがない。
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796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。
世間では、人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては分別し「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは思考の運動がもたらす諸々の論争を超えることがない。
795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。
真の修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす煩悩の範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また修行に伴う離欲を貪ることもない。かれはこの世ではこれが最上のものであると固執することもなく全てを手放しているのである。
974 またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲を抑制せよ。
またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて、それらの運動を制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲=人間的思考の運動(快⇔不快)を抑制せよ。
793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。
かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことに対しての人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、運動を支配している。このように観じ、両極端に覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。
792 みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。
思考の運動によって、みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、両極端の想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダ=人間的思考の運動(快⇔不快)を止めた観察によって真理を知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。
791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。
前の師などを捨てて後の師などにたより、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、両極端をとらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。
790(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。
真の修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて観察をするという正しい道のほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは思考の運動による禍福に汚されることなく、偏った自我を捨て、この世において禍福の因をつくることがない。
789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。
もしも人が人間的思考の運動(快⇔不快)による偏った見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が人間的思考の運動(快⇔不快)を止めるという正しい道以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。
788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。
「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは人間的思考の運動(快⇔不快)の見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、人間的思考の運動(快⇔不快)による両極端の見解を最上の境地に達し得る)智慧であると「理解=誤解」する。
787 諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。
諸々の「事物=両極端」に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、偏見や執着にたより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。