スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2022年

スッタニパータ 老い806の解説

806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

 

 

人が人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて「これはがわがものである」と考える物、ーそれはその人の死によって失われる。われに従う人は、賢明に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めた中道による観察により、この理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

スッタニパータ 老い805の解説

805 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。

 

 

人々は人間的思考の運動(快⇔不快)によって「わがものである」と執着した物のために悲しむ。自己の所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と真理を見て、運動がもたらす在家にとどまってはならない。

スッタニパータ 老い804の解説

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。

 

 

 

ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。この真理を見たならば、修行者よこの無常の世に執着をしてはならない。それらの想いを手放し、戻らないようにせよ。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句803の解説

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

 

かれらは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、妄想分別をなすことなく、いずれか一つの「偏見=両極端への想い」を特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。修行者は戒律や道徳によって両極端に導かれることもない。このような人は、中道を歩み彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句802の解説

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

 

かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの「妄想(もうそう)=人間的思考の運動(快⇔不快)」をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないその修行者を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

スッタニパータ 最上についての八つの詩句801の解説

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。

 

 

かれはここで、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、何かを掴もうと願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して「得た=掴んだ」固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。かれは、全てを手放しあるがままに見るものだからである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句800の解説

800 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せずいかなる見解もをそのまま信ずることはない。

 

 

かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することによって、捨て去って両極端に執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は種々異なった見解に執着をし、それらを掴み分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せずいかなる見解もをそのまま「信ずる=掴む」ことはない。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句799の解説

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

 

 

智慧に関しても、戒律や道徳に関しても自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、世間において両極端の運動による偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。それらの想いは人間的思考の運動(快⇔不快)なのである。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句798の解説

798 人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と(真理に達した人々)は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

 

 

人が人間的思考の運動(快⇔不快)を立上げて、何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実に両極端へのこだわりである、と真理に達した人々は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳に人間的思考の運動(快⇔不快)を制することに努め励み運動による見方にこだわってはならない。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句797の解説

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

 

 

かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。故に中道から逸脱し真理を見る事ができない。