817 かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ。
ひとたび淫欲の交わりに耽ったならば、かつてかれのもっていた「名誉も名声=中道による真理を見る眼」も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、修行者は、淫欲の交わりを断つことを学べ。
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817 かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ。
ひとたび淫欲の交わりに耽ったならば、かつてかれのもっていた「名誉も名声=中道による真理を見る眼」も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、修行者は、淫欲の交わりを断つことを学べ。
816 かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。
かつては自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、独りで暮らしていたのに、のちに両極端を求めて淫欲の交わりに耽る人は、車が中道と言う道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。この道理を見て修行者は、自らの思考の運動を止める事に集中すべきである。
814 ティッサ・メッテイヤさんが言った、ー「きみよ。淫欲の交わりに耽(ふけ)る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」
815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しいことがらである。
師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は人間的思考の運動(快⇔不快)を制すると言う教えを失い、両極端を求めて邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある何か(苦)を掴もうとする卑(いや)しいことがらである。
813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げることもなく、執着して考えることがない。かれは何かを掴んで他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは、両極端の対象を貪らず、また嫌うこともない。このようにあるがままに見るものなのである。
812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。
たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することによって、見たり学んだり思索したどんなことについても、両極端に近寄ることを制するが故にそれらに汚されることがない。
811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。
聖者はなにものにもとどこおることなく、自らの人間的思考の運動(愛⇔憎)を制して、愛することもなく、憎むこともない。人間的思考の運動(快⇔不快)を制して近づかないが故に悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。そのように中道を保って、汚れを回避せよ。
810 遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。
人間的思考の運動(快⇔不快)から遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。人間的思考の運動(快⇔不快)を追いかける迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。
809 わがものとして執着したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。
人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、わがものとして執着したものを貪り求める人々は、その両極端への想いがもたらす憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有=想いを捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。
808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。
「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。それらの真理を見て、人間的思考の運動(快⇔不快)による無常への想いを捨て去り観察に努めよ。
807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。
夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。このように人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、無常に気づき、真理を見よ。この世にこだわるべきものは何もないのである。