スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2021年

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇909の解説

909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。

 

 

見る人は人間的思考の運動(快⇔不快)の分別によって、名称と形態とを見る。また見てはそれらを常住または安楽であると認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらをそのように思い込み見たらよいだろう。真理に達した人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制せずに、それを見ることによって清浄になるとは説かないからである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇908の解説

908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

 

 

「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、自らの思考の運動を止めると言う正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇907の解説

907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

 

 

真の修行者は、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて人間的思考の運動(快⇔不快)により断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、自らの観察によって、まぎれもない真理を知るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇906の解説

906 かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。

 

 

かれらは自らの人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げては、自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。しかしながら、人間的思考の運動(優⇔劣)を制しない限りには真理を見る事はできないのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇905の解説

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

 

 

もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。人間的思考の運動(優⇔劣)を立上げて語るけだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇904の解説

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。

 

 

かれらは自らの人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げては、自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。真理とは人間的思考の運動(優⇔劣)を制し、全体を見る事によってしか見る事ができないのにである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇903の解説

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。

 

 

かれらは、それぞれが人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げては、或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。人間的思考の運動(優⇔劣)が立ち上がった状態なのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇882の解説

882 諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

 

 

諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。真実は、自ら見るものであって、他人から教えられるものではないからである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇881の解説

881 またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。

 

 

 

またもしも自分の人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、あるがままに見た真理によって清らかとなり、自分の見た真理によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解はその点で等しく完全であるからである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇880の解説

880 もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

 

 

もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて各自の偏見を固執=人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて論じているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。