スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2021年

スッタニパータ 最上についての八つの詩句800の解説

800 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せずいかなる見解もをそのまま信ずることはない。

 

 

かれは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、種々異なった見解に分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せず、いかなる見解もをそのまま信ずることはない。かれは両極端に影響を受けることなく中道を歩み真理を見たのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句799の解説

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

 

 

智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす偏見をかまえてはならない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。個々にこだわることなく、全体を観察することによってこそ真理を見る事ができるのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句798の解説

798 人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と(真理に達した人々)は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

 

 

 

人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と真理に達した人々は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、こだわりを捨て、全体を見る中道による観察を行うべきである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句797の解説

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

 

 

かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、その見方だけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。すなわち両極端の一方を取り半分を捨てるが故に全体を見る事ができないのである。それゆえに真理に到達することは出来ない。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句796の解説

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

 

 

世間では、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と両極端に説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。人間的思考の運動(快⇔不快)である運動の波(快と不快)を繰り返すのみである。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句795の解説

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

 

 

真の修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす煩悩の範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれはこの世ではこれが最上のものであると固執することもない。すなわち両極端を離れて中道を歩む者である。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句794の解説

974 またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

 

 

またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち人間的思考の運動(快⇔不快)が掴もうとする色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲を抑制せよ。制して中道を保つのである。

スッタニパータ サーリープッタ973の解説

973 他人からことばで警告されたときには、心をおちつけて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒(すさ)んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。

 

 

他人からことばで警告されたときには、人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて自らの心をおちついて観察せよ。ともに修行する人々に対する人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす荒(すさ)んだ心を断て。修行に通じることばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人間的思考の運動(快⇔不快)を立上げて人々をそしることを思ってはならぬ。常に中道を保つことである。

 

スッタニパータ サーリープッタ972の解説

972 眼を下に向けて、うろつき廻ることなく、瞑想に専念して、大いにめざめておれ。心を平静にして、精神の安定をたもち、思いわずらいと欲のねがいと悔恨(かいこん)とを断ち切れ。

 

 

眼を下に向けて、人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、心がうろつき廻ることなく、瞑想に専念して、大いにめざめておれ。心を平静にして、精神の安定をたもち、中道を維持して、思いわずらいと欲のねがいと悔恨(かいこん)とを断ち切れ。そのような状態で観察を行うのである。

スッタニパータ サーリープッタ971の解説

971 適当な時に食物と衣服とを得て、ここで(少量に)満足するために、(衣食の)量を知れ。かれは衣食に関しては恣(ほしい)ままならず、慎(つつ)しんで村を歩み、罵(ののし)られてもあらあらしいことばを発してははならない。人々をそしることを想ってはならぬ。

 

 

適当な時に食物と衣服とを得て、ここで少量に満足するために、衣食の量を知れ。修行者は衣食に関しては恣(ほしい)ままならず、慎(つつ)しんで村を歩み、物乞いと罵(ののし)られてもあらあらしいことばを発してははならない。人々をそしることを想ってはならぬ。それらの思考は全て人間的思考の運動(快⇔不快)によるものだからである。