この瞑想は、現象の観察と心の観察とをあるがままに観察をする。
あるがままに観察するとは、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて分けることなく全てを観察する。人間は、人間的思考の運動によって、両極端に分けるため、半分を見、半分を見ようとしない。それでは、全てを見て真理を視ることはできないのである。故に思考の運動を止めて観察することによって、全てを知り、全てを知見する。この瞑想を行うのである。
観察をしていくと、全ての現象、心は、無常であり、苦であり、無我であることがわかる。この世は無常であるから全ての現象が変化する。それを観察する。すなわち無常である。この世は無常であるが故にその現象に執着をすることは、苦である。執着することなくあるがままに観察をする。心を自分と思っている人々が多いが、心をよく観察すると。心は、自分の思い通りにはならないことがわかる。故に無我である。
心を更に観察すると、心と感情に分かれていることがわかる。感受する心とそれに反応する感情である。例えば好きな対象を得れば、感情が喜び、得られないならば怒る。これを観察すると、現象は、ただ、生起して消滅しているだけなのだが、心がその現象を感情的にとらえることによって意味のあることに変化をする。この流れを観察する。ここに苦を感じ、苦の生起のもとを観察し、苦が滅するに至る道を観察するのである。
心の観察によって、心の本性を知る。心の本性は、空性である。その空性の輝きが心であり。空性の本質を知る事が智慧なのである。それは、自らの内にあり、それを観察による知見によって気づくのだ。その知見によって覚醒した意識と空性は同一のものである。それが自分だということに気づいたとき悟りを得ることができるのだ。抵抗すべき対象はなくなり、守るべき我もない。なぜなら私たちの本性は、空であり、何もかもを受け入れることができる。空性に防御は必要なく、ダメージを受けることもない。誰も空に対して危害や影響を及ぼすことはできない。考えやイメージは攻撃や傷つけられる事があっても、空としてのスペースは破壊されることはなく、朽ちることもなく、増えることもなく、減ることもなく、生じることもなく、滅することもない。空を悟ることで、確信に満ちた心、なにものをも恐れない心が生まれる。空そのものに溶け込むことによって生き方に確実な変化が現れるのである。普遍の空へ溶け込み。完全なものとなる。この心の本性である空をしっかり自らが認識をして、知見を得るまで観察を続けるのである。それが観察の瞑想の到達点となる。