スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2018年

スッタニパータ  サーリープッタ 964の解説

963 師(ブッダ)は答えた、「サーリープッタよ。世を厭(いと)い、人なきところに趺坐し、さとりを欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を、わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。

 

964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻(あぶ)や蚊(か)と爬虫類(はちゅうるい)と四足獣と人間(盗賊など)に触(ふ)れることである。

 

人間的思考の運動にしっかりと気をつけ中道を守る聡明な修行者は、次のような場合においても中道を守らなければならない。すなわち襲いかかる虻(あぶ)や蚊(か)と爬虫類(はちゅうるい)と四足獣と人間(盗賊など)が目の前に現れた場合も人間的思考の運動(安心⇔恐怖)による反応の仕方をすることなく中道を保つことである。

 

スッタニパータ  武器を執ること 954の解説

954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、慳(ものおし)みを離れ、取ることもなく、捨てることもない。ーと師は説かれた。

 

 

 

聖者は、人間的思考の運動を制止し、分ける事がないので、自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは、人間的思考の運動を制して、安らいに帰し、運動が欲するところの慳(ものおし)みを離れ、取ることもなく、捨てることもない。ーと師は説かれた。

 

スッタニパータ  武器を執ること 953の解説

953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智(えいち)ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

 

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)により発生する欲望に動揺して煩悩に悩まされることなく、中道を保って叡智(えいち)ある人にとっては、いかなる作為(何かを欲する想い)も存在しない。かれは何かを求めるような、あくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

スッタニパータ  武器を執ること 952の解説

952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩(なや)まされることなく、万物に対して平等である。ー動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

 

 

人間的思考の運動を制して、欲望を制して無慈悲になることなく、貪欲なることなく、運動によって動揺するような、煩悩に悩(なや)まされることなく、万物に対して分けないので平等である。ー人間的思考の運動を制して動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

スッタニパータ  武器を執ること 951の解説

951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」 というような思いが何も存在しない人、ーかれは(このような)〈わがものという観念〉が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。

 

 

 

「これはわがものである」また「これは他人のものである」 というような人間的思考の運動による思いが何も存在しない人、ーかれは、このような、「わがもの⇔他人のもの」という運動による観念が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。この世は無常であり変化する世界である事を知って、ものごとを両極端に分ける想いを制して、執着をしてはならないと師は言われた。

 

スッタニパータ  武器を執ること 950の解説

950 名称と形態につて、〈わがものという想い〉の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、ーかれは実に世の中にあっても老いることがない。

 

 

 

人間は人間的思考の運動により目の前のものを快、不快に分け名前を付け、形に執着をする。名称と形態につて、人間的思考の運動により2つに分ける思考を制止し、わがものという想いの全く存在しない人、また執着したものが、なくなったからといって悲しむことのない人、ーかれは実に世の中にあっても老いることがない。すなわち、その人間的思考の運動がこの世に時間を生み出し、変化ある世界を形成し、変化ある運動をする。その想いを制した聖者は、もはや時間を超越した存在であり、彼の岸へ到達しもどることはない。

 

スッタニパータ  武器を執ること 949の解説

949 過去にあったもの(煩悩)を枯渇(こかつ)せしめよ。未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。

 

 

 

人間的思考の運動により過去に分別した煩悩を枯渇(こかつ)せしめよ。未来には汝に何ものも分別せぬようにせよ。現在においても汝が何ものをも分別して執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。修行者は常に自らの人間的思考の運動に気をつけよく反応の仕方を観察し過去に作ったクセを見抜き現在も修正して未来にもよく気をつけることで彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ  武器を執ること 948の解説

948 世間における諸々の欲望を超え、また克服(こくふく)しがたい執着を超えた人は、流されず、束縛されず、悲しむことなく、思いこがれることもない。

 

 

 

世間における諸々の人間的思考の運動が起こす欲望を超え、また克服(こくふく)しがたい執着を超えた人は、運動に流されず、束縛されず、悲しむことなく、思いこがれることもない。人間は、人間的思考の運動により禍福が訪れるが、人々は運動の途中にある福を思いこがれ、災いを悲しむ。そして執着をする。聖者は、運動に流されず、両極端にこだわることはない。故にかれは、安らいでいるのである。

スッタニパータ  武器を執ること 947の解説

947 かれは智者であり、ヴェーダの達人である。かれは理法を知りおわって、依りかかることがない。かれは世間において正しくふるまい、世の中で何びとをも羨(うらや)むことがない。

 

 

かれは智者であり、修行の達人である。かれは理法を知りおわって、何かに頼ることがない。かれは世間において人間的思考の運動を制しふるまい、世の中で何びとをも羨(うらや)むことがない。かれは分ける事がないからである。聖者は中道を歩み遂には彼の岸へと到達する。

 

スッタニパータ  武器を執ること 946の解説

946 バラモンである聖者は、真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。かれは一切を捨て去って、「安らかになった人」と呼ばれる。

 

 

 

修行者でもある聖者は、真実から離れることなく、人間的思考の運動を制して中道である安らぎに立っている。かれは一切の人間的思考の運動による喜びを捨て去って、「安らかになった人」と呼ばれる。この人間的思考の喜びには必ず同等の苦しみがついてまわることを知って、修行者よ中道に帰するのだ。