858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。
かれには、子も、家畜も、田畑も、地所に対しての人間的思考の運動(好き⇔嫌い)も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が認められない。全ての人間的思考の運動に対しての反応の仕方を制して、ついには、安穏を観たのである。
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858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。
かれには、子も、家畜も、田畑も、地所に対しての人間的思考の運動(好き⇔嫌い)も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が認められない。全ての人間的思考の運動に対しての反応の仕方を制して、ついには、安穏を観たのである。
857 諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。
諸々の人間的思考の運動を制し、人間的思考の運動からなる欲望を顧慮(こりょ)(欲)することのない人、ーかれこそ平安なる者(聖者)である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに諸々の人間的思考の運動による反応の仕方を制し、執着を渡り了(お)えた。
856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。
両極端に依りかかることのない人は、理法すなわち人間的思考の運動を止める事を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。その想いによる運動をも制して寂静に帰しているのである。
855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。
平静(中道)であって、常に自らの人間的思考の運動によく気をつけていて、世間において両極端の思考が立ち上がらないように制し、他人と自分とを比較し等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれの人間的思考の運動は、制され煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。人間的思考の運動(喜⇔悲)が立ち上がると、他人と自分を常に比較しては、勝っていると喜び、劣っていると悲しみ、等しいと思うと安堵する。このように常に人間的思考の運動により世の人々は一喜一憂し執着するのであるから、修行者よ、これらを制して、中道を歩むのである。
854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。
次に修行の心得が語られる。人間的思考の運動(損⇔得)により、利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、人間的思考の運動(怒⇔喜)を制して、怒ることがない。人間的思考の運動(快⇔不快)による妄執のために他人に逆(さから)う(争う)ことがなく、人間的思考の運動(旨⇔不味)を制し美味に耽溺(たんでき)することもない。全ての反応の仕方に中止して、修行に励み中道を歩め。
853 快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。
人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢⇔消沈の運動を制し高慢にならず、常に、中道を歩み、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、両極端に信ずることなく、なにかを排除しようと嫌うこともない。このように聖者は歩むのである。
852 (遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。
人間的思考の運動からなる遁欲(とんよく)などから遠ざかり、両極端による欲望を回避し、それを得るためにいつわることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、得たものを慳(ものおし)みせず、得ても傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、得られなくとも両舌(かげぐち)を事としない。このような、人間的思考の運動による両極端の想いを制して中道に帰するのである。
851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。
人間的思考の運動による反応の仕方で、未来を願い求めることなく、過去を思い出しては、運動し、憂(うれ)えたりすることもない。現在も感官で触れる諸々の対象について分別することなく、遠ざかり離れることを観じ、諸々の両極端による偏った見方に誘われることがない。そのようにして聖者は、中道へと近づくのである。
850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。
かの聖者は、物事が立ち上がった場合にどのような反応の仕方をするのか?怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。また、それらと正反対の反応の仕方をも制して両極端の反応をしない。このような反応の仕方だと知れ。すなわち両極端の反応の仕方を制して貪瞋癡で返さない反応の仕方なのである。
848 「どのように見、どのように戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたしに説いてください。」
849 師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。
師は答えた、「死ぬよりも前に、人間的思考の運動を完全に制止し、妄執を離れ、過去に起こった事に対しても想い巡らすことなく、人間的思考の運動による想いを制して、現在においてもくよくよと人間的思考の運動による感情が動いて思いめぐらすことがないならば、かれは未来に関しても特に人間的思考の運動による想いが動くこともなく、思いわずらうことがない。このように修行を積んだ者が安らかなのである。