スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2017年

スッタニパータ 迅速917の解説

917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。

 

 

 

人間的思考には様々な運動の仕方があるが、内的にでも外的にでも、いかなる運動の状態をも知りぬけ。しかしそれを知ることによって慢心を起こしてはならない。慢心を起こすこともまた、人間的思考であるので気をつけよ。人間的思考の運動をしているうちは、安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。

スッタニパータ 迅速916の解説

915 〔問うていわく、ー〕「太陽の裔(すえ)である偉大な仙人(ブッダ)、あなたに、遠ざかり離れること平安の境地とをおたずねします。修行者はどのように観じて、世の中の何ものをも執することなく、安らいに入るのですか?」

 

 

916 師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて。有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に在するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

 

 

 

師(ブッダ)は答えた、「われは考えて。(有る⇔無い)という迷わせる不当な人間的思考の運動である根本をすべて制止せよ。内に在するいかなる妄執すなわち二元の運動をもよく制して導くために、常に心して学べ。人間は、この世の中において、生起と、消滅するのを見て、「有る⇔無い」と言う両極端の思考に至るのである。この運動が人間の根本煩悩であり、執着のもとである。修行者は、この運動を制する技術を常に心して学び世の中にはびこる執着をのりこえ安らぎに至れ。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇914の解説

914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。かれは負担をはなれて解放されている。かれははからいをなすことなく、快楽に耽(ふけ)ることなく、求めることもない。ー師はこのように言われた。

 

 

見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して人間的思考の運動を止め両極端(快⇔不快)に分けることがないので、敵対することがない。かれは両極端に分けて執着をするような負担をはなれて解放されている。かれは、人間的思考の運動を止めているので、何かを気にして、快を得るために、はからいをなすことなく、両極端に分けることもないので、快楽に耽(ふけ)ることなく、求めることもない。かれは全ての人間的思考の運動による反応を制して安らいでいる。   ー師はこのように言われた。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇913の解説

913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執着して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。

 

 

 

人間には、いくつかの汚れが存在する。それは、人間的思考で分別した汚れであり、煩悩である。過去において、人間的思考の運動により、分別した、記憶を蓄積している。それによってすぐさま快、不快に分け、執着をするのである。そして、新しく目の前に現れたものに対しても、人間的思考の運動により分別し、その分別した欲にもとづいて、執着して論ずるのである。賢者は、過去に分別した記憶を捨て、それにとらわれることなく、新しく分別することもない。分けないので、欲におもむかず、執着して論ずることもないのである。諸々の人間的思考の運動がつくる偏った見方を離脱して、世の中における人間的思考の運動が作り上げた常識に汚されることもなく、自分を責めるような過ちを犯すこともない。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇912の解説

912 聖者はこの世で諸々の束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-

 

 

 

人間は、「安心」⇔「不安」という人間的思考の運動を繰り返し、多数派に、くみして「安心」を得るべく党派にくみする。自らの好みにとらわれ、束縛され、雁字搦めである。聖者は、この世の中において、諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときも、「安心」を求めることなく、党派にくみすることもない。かれは人間的思考の運動をしている人々の中にあっても、安らげく泰然として執することがない。他の人々は、人間的思考の運動にとらわれて執着しているのだが。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇911の解説

911 バラモンは正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-

 

 

 

人間は、妄想分別により、ものごとをすぐに快、不快に分け、自らの好みにもとづいた判断をする。そして、諸々の見解を立てるのである。聖者は、自らの人間的思考の運動を制し、妄想分別に赴かない。人間的思考による偏った考えに流されず、知識にとらわれることもない。かれは、人間的思考の運動を続けている人々が立てる諸々の偏った見方を見て、これは、このような運動によりこのような見解になると知り、執着することはない。人間的思考の運動が止められない人々は、それに執着をしているのだが。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇910の解説

910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。

 

 

 

人間的思考(快⇔不快)の運動を制せず、自らの見方すなわち「われは知る」「われは見る」ということに執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依存して知ることがらのみが適正であると説き、そのことがらにのみ清浄となる道と信じ込んでいる論者は、そのようにかれの人間的思考の運動の好みにもとづいて一方的に見たのである。聖者は、自らが知り得たこと、見たことがらについても、人間的思考の運動を制し執着をしない、ゆえに聖者は、安穏に満ちているのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇909の解説

909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。

 

 

 

人間的思考(快⇔不快)の運動で見る人は、名称と形態とを見る。すなわち好みにとらわれて、ものごとを分別するのである。また見てはそれらを常住または安楽ではないか?と想像する。人間的思考を制していない人々は、多かれ少なかれ、それらをそのように見ているのである。真理に達した人々は、人間的思考の運動による妄想分別した見方によって見ることでは、清浄になるとは説かない。それらが、苦の根源であることを知って、安穏を観たのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇908の解説

908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

 

 

 

「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」ということを聞くことによってまた知ることによって清浄になることができると或る人々は理解しているが、たとえ、かれが見たとしても、それが、そなたの解脱につながるわけではない。かれらは、それぞれの人々が自ら人間的思考の運動を制しないといけないという道を踏みはずして、他人の体験を聞くこと、または知ることによって清浄となると説く。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇907の解説

907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

 

 

 

真の修行者は、人間的思考の運動すなわち快⇔不快を完全に制止しているので、好みにとらわれて他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて、人間的思考(快⇔不快)の運動にもとづいて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えに対して人間的思考(快⇔不快)の運動にもとづいた比較対象を行わず、最も勝れたものだと見なすこともないからである。この人間的思考による運動を全て制止して、世の中を平等に知るものかれこそは聖者と呼ばれるものである。